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民権派五派

(一般)
みんけんはごは

1890年7月1日に行われた日本初の帝国議会(衆議院)議員の選挙を受けて開会された、第1回帝国議会における現藩閥政府寄りの議員の集合体の通称『吏党』に対し野党的立場を採った通称『民党』だが、実は大きく5つの派閥に分かれバラバラであった。
当事の『民党』は『立憲自由党』と『立憲改進党』の2党であったが、その中でも『立憲自由党』は中身は寄り合い所帯の四分五裂の状況で、「東北派(河野広中)」「関東派(大井憲太郎・星亨)」「土佐派(板垣退助・片岡健吉・林有造)」「九州派(松田正久)」の4つの派閥があり、さらに第1回帝国議会における立場でも、①・硬派(中江兆民ら)、②・実務取引派(板垣退助、植木枝盛ら土佐派の路線)、③・帝国ホテル派(中間軟派)に分かれていた。
(民権派五派は、当事の立憲自由党の「東北派(河野広中)」「関東派(大井憲太郎・星亨)」「土佐派(板垣退助・片岡健吉・林有造)」「九州派(松田正久)」の4つの派閥と立憲改進党の5つに分かれていたことをさす)
このような、四分五裂の状況で第1回帝国議会が丸く収まることはなく、予算審議の『民力休養、政費節減』めぐって、対立はエスカレートし、土佐派の二十八名は立憲自由党を裏切って政府案に賛同、修正案を作らせ、わずか二票差で軍拡予算案を可決させた。
この結果、民権派五派の曲がりなりにも成立していた大同団結路線は破綻し、『民党』は完全に四分五裂の状況になる。
この結果に喜んだ当事の藩閥政府は衆議院を解散し、『吏党』で単独過半数を狙い、品川弥二郎内相などが大々的に選挙干渉を行う(※結果、各地で民党候補及び支持者と警察との衝突が発生し、自由党が強い高知県で政府公式発表で死者10名・負傷者66名という流血の惨事が発生した他、全国で25名の死者を出した)が、それでも『民党』が『吏党』の議席数を上回り勝利。その後も、政府側は衆議院では『民党』優勢という『貴族院』とのねじれ解消を狙い、繰り返し衆議院を解散するが、初期議会選挙では『吏党』は1度も勝利することなく終わる。
このような日本の初期議会の状態は、1894年7月に日清戦争が勃発するまで続くことになる。

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