かつて京都の山科にあった浄土真宗の寺院。通称は本願寺ノ城。本願寺第八世法主の蓮如により、文明15年8月22日(1483年9月23日)に建立された。周囲には堀と土塁を築いて、寺内町を形成していたが、天文元年8月24日(1532年9月23日)、六角氏と法華宗徒により焼き討ちされた。現在、跡地には浄土真宗本願寺派と真宗大谷派の山科別院が建っている。また、南殿跡と土塁跡は2002年に国の史跡に指定されている。
本願寺・第10世宗主である証如はこの時17歳で、教団の実権はその祖父であり後見人でもあった、蓮淳が握っていた。細川晴元と組んで、一揆の蜂起を決定したのもこの蓮淳であったが、今や暴走する一揆をなんとか制御下に置こうと、悪戦苦闘する始末。しかし一向一揆の暴走は収まらない。 一方、新たに幕府を統べる立場となった晴元にしてみれば、そもそも自分が蒔いたタネがこうした事態を引き起こしたわけで、一刻も早く事態を収拾する必要があった。 細川晴元は一向一揆を見限り、その殲滅を目論むことにする。その動きを知った蓮淳は激怒、一揆を鎮める方向から180度方針転換する。8月2日、今やはっきりと敵に回った晴元の本拠地であ…
趣のある建物だと思いますが・・・先日、インターネットで京都新聞を見ていたら面白い記事がありました。元記事が無くなってしまったのでとある方のブログから引用させて頂きます。 世界の歴史都市には、エジプト考古博物館やローマ考古博物館など都市の歴史を一ヵ所で見学できる施設を持っている。京都市はどうかというと、考古資料館、歴史資料館、平安京創生館という施設を保有しているが、ほとんど知られることもなく人知れずひっそり存在している。 考古資料館に至っては、京都市の外部監査からも「貧相でみすぼらしい」と酷評されている。一方、保有している埋蔵文化財や展示品は素晴らしい。普通に岩倉具視が襲われた時の駕籠などが裏の…
戦国時代の出来事を年表にまとめた。 戦国時代 は 日本の歴史の時代区分の一つである。 前は 室町時代 後は 安土桃山時代 広義の室町時代に含まれる。 戦国時代の概要 戦国時代の文化 戦国時代の出来事 1449年 (文安6年) 足利 義政 8代将軍に 1455年 (享徳3年) 享徳の乱 1465年 (寛正5年) 後土御門天皇 即位 1467年 (応仁元年) 応仁の乱 1470年 (文明2年) 京極騒乱 1471年 (文明3年)山名豊之の殺害事件 1473年 (文明5年) 足利 義尚 9代将軍に 1479年 (文明11年) 毛利次郎の乱 1487年 (長享元年) 長享の乱 1487年 (長享元年)…
本日はふと見かけた吉野に関する講演会に出かける。報告にも興味があったのだが(実際、播磨の寺院名が登場して驚き・・・)、会場の最寄り駅から以前から気になっていた下市に行けるというのも大きな動機。山科本願寺から吉野材木が突然出てきて、それとセットで登場する町で、真宗がルートをつくったと妄想しているため。朝7時前に出かけて9時に到着し昼まで歩き回ったが、想定以上の巨大都市。地名大系によると天明八年村明細帳で家数1088で、歩いても数キロにわたって田畑がほぼ見当たらず家が建ち並ぶ。早い時期の真言に対して、戦国期に真宗寺院が建立され、町の東西に並び、バス停には「寺内」がみられる。永島福太郎の先行研究があ…
日本人というのは、どうしても権威、集団に弱い。権威や集団に逆らえない。権威や集団の要求がどんな無理難題でも甘んじて受けてしまう、そんなところがある。そういう日本人の傾向に対抗するようにして生まれ、発展したのが日蓮宗である。 日蓮は鎌倉時代の日本に生まれた。日蓮は非常に個性的な人物である。日蓮は戦乱や飢饉、疫病などの災害が絶えないのは、当時の仏教が誤った教えだからと考えた。だから他の邪宗を排し、人々が法華経のみに帰依すれば日本は良くなると主張し、他の仏教を廃止するよう、時の鎌倉幕府に訴えたのである。日蓮の主張は益々過激化し、「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」という四箇格言を唱え、「このままで…
大阪城の歴史満喫の旅 大西町史談会 今年( 2023 ) の お城巡りは 「大阪城の歴史満喫の旅」で、愛媛県今治市大西支所に39 名が集合、午前7時10分 いずみ 観光の大型バスに乗車大阪城へ出発。サービスエリアで2度の休憩 ( 15分 )。 ~ 11時、淡路ハイウエーオアシスで昼食・休憩 ( 約50分 ) ~ 12時45分 大手前芝生広場前到着 ( 大阪ボランティアガイドさん )と天守閣迄 ( 約90分のガイド付き )、あとは自由行動。天守閣へ階段で8階天守閣展望台まで歩いて上り、天守展望台からの景色を楽しみました。 午前7時10分 いずみ 観光の大型バスに乗車大阪城へ出発。 史談会村上会長…
〇梁川星巖(やながわせいがん) (1789~1858) 江戸時代後期の漢詩人。名は卯。通称は新十郎。美濃国安八郡曽根村(現岐阜県大垣市)生まれ。郷士の出で、1820年女流漢詩人紅蘭と結婚した。安政の大獄では、かつての弟子、老中間部詮勝を懐柔する計画であった。星巌自体が、梅田雲浜、頼三樹三郎、吉田松陰、橋本左内などと交流があったため捕縛の対象であったが、直前にコレラによって急死した。 <梁川星巌像> 場所:曽根城公園(岐阜県大垣市曽根町1-716-1) 竣工:1989年10月 像高: 作者:寺沢孝明・安田修 撮影時:2023年3月28日 説明:曽根城公園は、戦国時代の稲葉一鉄の居城で、古大垣輪中…
伏見と山科 宇治に続く霊場は、京都伏見の醍醐寺です。伏見と言えば、伏見稲荷や伏見桃山城があるところ。ところが、醍醐寺は、そこからは、少し離れた場所にあるのです。 宇治市の最北端の六地蔵。そこから平地は、V字状に2方向に分かれます。左に向かうと、まさに伏見の方角で、京都盆地につながります。反対の右側は、山科(やましな)へと向かう道。次の札所の醍醐寺は、この、山科への道沿いに境内を構えています。 山科は、京都市でありながら、少し趣を異にした地域です。都との間には、東山の連山が壁をつくり、西側の近江とは、逢坂山や南郷の険しい峰々が、往来を阻んでいます。そのような地形から、この地域は、”山科盆地”とで…
1531(享禄4)年に細川晴元は細川高国を敗死させ、細川京兆家の家督争い(両細川の乱)に勝利しました。 しかしその後、晴元がそれまで擁立していた堺公方・足利義維を切り捨て、12代将軍・足利義晴と和睦する方針を打ち出したことから、堺幕府内は和睦に反対する三好元長、畠山義堯と、元長の追い落としと画策する木沢長政、三好政長とで深刻な対立が発生。 1532(享禄5)年5月にはついに軍事衝突に至り、木沢長政は旧主・畠山義堯と三好元長、筒井順興に居城・飯盛山城を包囲され絶体絶命となります。 長政から救援要請を受けた細川晴元は、自分の意向に従わない三好元長と畠山義堯の討伐を決め、法華宗信者であった三好元長と…
1507(永正4)年の細川政元暗殺(永正の錯乱)から始まる細川京兆家家督を巡る争いで、ライバルの細川澄元を阿波へ撃退した細川高国は、10代将軍・足利義稙をも京から追い出して新将軍・足利義晴を擁立するなど、20年にわたって京都で政権を握りました。 しかし、家中の内紛から1527(大永7)年に高国政権は内部から崩れ、阿波に逼塞していた細川澄元遺児・晴元と三好元長が桂川原の戦いで将軍・義晴と高国を撃破すると、義晴、高国は近江へ逃亡。 高国政権は崩壊して晴元方が京都の支配権を握り優勢となります。 高国政権崩壊により高国の意向で結ばれた筒井氏と越智氏の同盟はほころびを見せ、1529(享禄元)年に筒井順興…
短夜や一つまきたる草の蔓 玉木北浪。『新歳時記 虚子編』(三省堂1934年刊)の「短夜」はこう記されている、「短い夏の夜である。夏至は最も短い。俳句に於ては、日永は春、短夜は夏、夜長は秋、短日は冬。これはそれぞれ理由がある。先人の定めた所、決して偶然ではない。明易(あけやす)し、夏の朝。」この些(いささ)か違和感を覚える「偶然ではない」というもの云いは、「たまたまそうなのではない」ということなのか、分かるようで分からない。みじか夜や毛虫の上に露の玉 蕪村。短夜や乳ぜり泣く兒(こ)を須可捨焉乎(すてつちまをか) 竹下しづの女。知恵光院通五辻上ル紋屋町の本隆寺の境内に「夜泣止松」の駒札を立てた松が…
こんばんわー ええっと・・あれは先月でしたっけ^^;? 「ブラタモリ」山科編、面白かったですね~!(私だけ^^;?) 更には「梅田編」も面白かったですね~!ダンジョンがあんなにアップダウンがちょいちょいある理由がよ~く解りました(^^)! 山科編ではオープニングでタモリさんがブラブラしていたのが疏水沿いだったので・・キタ・・!ついにブラタモリで【本圀寺】に切り込むのか・・! a-jyanaika.hatenablog.com と一瞬期待しちゃったんですが・・全然ちゃいましたね~^^;笑 あそこは山科疏水の「展望広場」という場所だったんですね・・あんなとこあったんだ・・・! totteoki.k…
山科本願寺の、南殿に面した御縁に腰掛けられて、蓮如さまは、「思っていたことと現実と全く違う、と、いうことの代表は、極楽浄土に生まれてみてのことである。迷いの世界にあって、極楽は有り難い所、尊い所と、思っているようなものは、たいしたことではない。阿弥陀如来の極楽浄土に生まれての喜びは、到底この世の言葉で言い表すことなどできない喜びなのだ」と、教えられた。 【 現代語訳 『 蓮如上人御一代記聞書 』 高松信英 法蔵館 】 「阿弥陀如来の極楽浄土に生まれての喜びは、到底この世の言葉で言い表すことなどできない喜びなのだ」と、教えられましたが、全くその通りだと言わねばなりません。
山科本願寺を壊滅させ、京のご政道を我が物とした京の町衆たち。これが実現したのが1532年のことである。ここから約2年間は町衆、というか法華宗徒たちの我が世の春が始まる。先の記事で見た通り、「衆会の衆」たちによる「洛中洛外のご政道」が行われるのだ。これは前代未聞の出来事であった。 これを苦々しい思いで見ていた者たちがいる。比叡山延暦寺である。 開山当初から霊的な意味で京を守ってきた彼らは、その地にまた絶大な権益をも有していた。元々、京にあった有力な土倉・要するに銭貸しは、軒並み叡山が経営するものであった。だが室町時代も後期に入ると、足利幕府による統制の影響もあって、山門による銭貸し業は大打撃を受…
1年余り続いた、一向一揆との苦しい戦い。しかし1533年6月、一向一揆との和議が成り、ようやく京に平和が訪れた。将軍・足利義晴と新管領・細川晴元は、更にそれから1年たった1534年6月になって、ようやく入洛を果たしている。将軍・義晴は南禅寺を仮御所として政務を見たようだが、晴元は京には住まず、近くにある摂津芥川城へ入ったようだ。 いまだ戦いをやめない、一部の本願寺抗戦派と対峙する必要があったのも確かだ。だがそれよりも機を見るに敏な晴元は、在京することで生じるであろう法華宗徒たちとの政治的対決を避けた節がある。幕府による京の支配は、今までのようにはいかなかったのである。 一向一揆は実に手強かった…