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ロマン ギャリ

(読書)
ろまんぎゃり

Roman Garyはペンネーム。本名はRoman Kacew。

1914年5月8日:Roman Kacew(ロマン ギャリの本名)は、ユダヤ人村落Wilno (現Vilnius 当時のソ連領リトアニア)に生まれる。母はNina Owczynskaで婦人用帽子屋、父Leonid Kacewは毛皮商だった。 

1915年:父がロシア赤軍に徴集される。この間ロマンは母とともにバルト地方のユダヤ人として収容所に入れられる。母はドイツ軍スパイの嫌疑を受ける。

1921 - 1927年:1920年のロシア・ポーランド戦争の帰結として生地Wilno (Vilnius)はポーランド領になる。1921年にロマンはウィルノに帰り1927年までここで生活する。

1927年:母とともにニース(フランス)へ移住。このとき13歳。ニースで高校を卒業後エクスアンプロヴァンス大学法学部に入学、パリの法学部へ転校して、ここで法学の博士号を得る。

1935年:フランス国籍を取り、空軍に志願する。

1937年:最初の小説"le Vin des morts"を本名で発表。

1940年:ロマンは"France libre"(「自由フランス」 ヴィシー政権に反抗する組織)に参加、この中の空軍組織(les Forces Aériennes Françaises Libres)で活動する。このときに戦闘名としてRomain Garyを名乗る。Garyはロシア語で「燃えた」を意味する。1945年にフランス解放戦士の称号を受ける。さらにレジオンドヌール3等勲章受勲者として終戦を迎える。

1945年:外務省に入りブルガリア、ベルン、ニューヨーク、ラパズなどを経験する。この年に"Education européenne"(ヨーロッパ風教育)をロマン ギャリの名前で発表し、批評家賞(le prix des Critiques)を受ける。

1956年:"Les Racines du ciel"(空の根)でゴンクール賞を受ける。ロサンジェルスのフランス総領事に任命される。

1961 - 1967年:外務省を離れる。作品を発表し続ける:"Gloire à nos illustres pionniers" (1962), "Lady L." (1963), "La Comédie Américaine"、 "Les mangeurs d'étoiles" "Adieu Gary Cooper" (1969)、"La danse de Gengis Cohn" (1967), "La tête coupable" (1968)、 "Charge d'âme" (1977)

1962年:アメリカ人女優Jean Sebergと再婚。1970年には離婚。最初の結婚は作家Lesley Blanchと。

1968年:映画"Les oiseaux vont mourir au Pérou"を作る。

1972年:映画"Kill"を作る。

1974年:Shatan Bogatの名前で"Les têtes de Stéphanie"を発表。このロマンヌワールの「新人」に対し批評は厳しかった。

Emile Ajarの名前で"Gros câlins"を発表する。表向きには、若い従弟Paul Pavlovitchが作家の役を演じる。"Ajar"はロシア語で「燠火」を意味する。

1975年:"Emile Ajar"作"La Vie devant soi"がゴンクール賞を受賞する。この作品はベストセラーとなり、23ヶ国語に翻訳される。ロマン ギャリの弁護士はゴンクール賞は同じ作家に二度与えられないという規則があることから、ロマン ギャリに受賞の辞退をするよう勧める。しかし従弟Paul Pavlovitchは最後まで劇を演じることを主張して授賞式に出かける。

1979年:9月にジーン セバーグが自殺する。Emile Ajar名の最後の作品 "L'Angoisse du roi Salomon"が発表される。

1980年:ロマン ギャリ名での最後の作品"Les cerfs volants"を発表。

1980年:12月2日にパリでロマン ギャリは拳銃で自殺する。

1981年:6月30日にAFP (Agence France Presse)はEmile Ajarがロマン ギャリであったことを発表する。

ロマンの文学的遺書である、1979年3月21日付けの"Vie et mort d'Emile Ajar"(エミール アジャールの生と死)が発表される。ここでロマンは「よく遊べた。さよなら、ありがとう」と書いている。

このバイオグラフィはロマン ギャリがユダヤ人であることを疑っていない。

しかし仏語ウィキペディアは

Romain Kacew est le fils de Leonid Kacew et de Nina Owczynska[1]. Leonid Kacew est le deuxième époux de la mère de Gary, qu'il a épousée pendant sa grossesse, laissant planer un doute sur la réalité de la paternité de l'enfant[2]. Gary est élevé par sa mère après le départ de son père du foyer conjugal lorsqu'il était enfant. Gary se prétendait juif par sa mère qui pourtant le baptisa catholique à Varsovie où ils vécurent de 1917 à 1928.

『ロマンの両親が結婚したとき、母はすでにロマンを妊娠していた。このためLeonid Kacewが血縁の父であるかには疑いをもつことをできる。また母方からユダヤ人の血を受けているとロマンは言うが、母はワルシャワでロマンにカトリックの洗礼を受けさせている』としてロマン ギャリがユダヤ人であることに疑問を呈している。

英語ウィキペディアを見ると、もう全くといっていいほど、ロマン ギャリをユダヤ人作家として紹介している。しかしロマンの作品にユダヤ的なところは一切ない、という読者は多い。ロマン ギャリをユダヤ人作家とする傾向はAnissimov Myriamによる伝記 Romain Gary le caméléon(ロマン ギャリ カメレオン)が出版されてからではないかと思われる。

因みにJ.P. サルトルは1905年の生まれ、昨日話題にしたクリスティアンヌ ロシュフォールは1917年の生まれ。

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