(注意:このページは『エメ・センゴール』という誤ったタイトルで作られたキーワードを修正する目的で追加されています。内容は『エメ・センゴール』のページと同じです。)
・・・・これ以下がレオポルド・セダール・センゴールの内容です・・・・
(日本語ページでは『サンゴール』と表記するほうが多い。)
ビオグラフィ
1906 - 1928 : 子供時代
1906年10月9日にセネガルのジョアル(Joal)に生まれる。ジョアルはダカールの南にある海岸の村。家族はセネガルではマイノリティであるセレル族(sérère)。家庭は裕福で何一つ不足のない子供時代を過ごす。父の三番目の妻であるレオポルド・センゴールの母はプル族起源のタボール族出身でイスラム教徒だった。センゴールの母は二人の男子と四人の女子をもうけた。センゴールの二番目の名前Sedarはセレレ語で『辱められない者』を意味する。センゴールはンガソビル(Ngasobil)の修道会の小学校、ダカールのカトリック中学校、公立高校に通い、1928年にバカロレアと官費留学生資格を取得、パリへ上る。
1928 - 1944 :
この時代をセンゴールは『迷いの16年』と呼んでいる。
センゴールはソルボンヌに入学するが落胆、ルイ・ル・グラン高校に入学して師範学校(ENS)入学を目指す。ここでセンゴールはPaul Guth, Henri Queffelec, Robert Verdier、Georges Pompidouに出会い親交を結ぶ。ENSの試験に落ちたセンゴールは文法のアグレガシオン(教授資格)を得ることにし、このためにフランス国籍を取得する。1935年に文法のアグレガシオンに合格。教授としてトゥールのルネ・デカルト高校に着任、ついでパリ近郊のサン・モール・レ・フォッセ(Saint-Maur-les-Fossés)に転勤する。教員を続けながらセンゴールは上級実業学校(École pratique des hautes études)でリラ・オンビュルジェ(Lilias Homburger)の指導するネグロ・アフリカン言語学課程に学び、またパリ文化人類学研究所
(Institut d'ethnologie de Paris)でMarcel Cohen, Marcel Mauss、Paul Rivetの指導するやはりネグロ・アフリカン言語学の授業を受ける。
1939年にセンゴールは植民地歩兵隊第59部隊に将校として徴集され、一年後にCharité-sur-Loireでドイツ軍の捕虜となる。収容所を転々とした後ポワチエにあった仏植民地兵士を収容したFront Stalag 230に移される。センゴールは二年間をあちこちの収容所で過ごすことになるが、この間に詩を書く。1942年に病気のために収容所から解放され教員職にもどる共に大学教員戦線の一員としてレジスタンスに加わる。
1945年以降:
戦後センゴールは国立海外フランス学校(École nationale de la France d'outre-mer)でセネガル独立の1960年までアフリカ文化・言語学の教授職を務める。
1945年にセネガル代表議員に選出される。センゴールは1946年、1951年、1956年にも議員に選出されている。欧州審議会諮問議会のメンバ、UNESCOのフランス代表、国連フランス代表、エドガー・フォールの官房長官などを歴任し1956年11月にはセネガル、ティエス市の市長となる。1960年9月5日にはセネガルの初代大統領に選出される。
1946年にセンゴールはフランス領アフリカ・エクアトリアル総督の娘と結婚二子を得る(Françis (1947-) et Guy (1948-1983))。
1967年、離婚したセンゴールはノルマンディ出身のColette Hubertと再婚する。
センゴールは旧フランス領スーダン(現マリ)とセネガルとでマリ連邦を作り1960年8月の破綻にいたるまで連邦議会の議長を務める。1960年9月5日にセンゴールはセネガル共和国の大統領に選出される。セネガル国歌『赤いライオン』はセンゴールの作である。1962年12月に首相Mamadou Diaがクデタを謀ったとして逮捕される。この事件後にセンゴールは大統領制を確立する。1967年3月22日、センゴールはテロを免れる。犯人には死刑が宣告される。
大統領第五任期の半ば1980年12月にセンゴールは辞職する。後任はアブ・ディウフ。センゴール大統領時代には多党制(ただし社会党、共産党、リベラルの三党のみ)が認められ、教育制度が確立された。センゴールは民主主義者として評価されるが、大学生の運動を厳しく弾圧したことも事実である。
公職、文学賞、名誉職多数。
1983年6月2日にはアカデミー・フランセーズ会員に選出された。
2001年12月20日死亡
センゴールの葬儀に現シラク大統領、ジョスパン首相(当時)いずれもが出席しなかったために文学界からの批判を浴びた。
詩集
エッセイ
ソース:仏語ウィキペディア、フランス・アカデミーのページなどから。