中華人民共和国陝西省西安にある仏教寺院。隋代からある寺院で、空海ゆかりの寺院としても知られている。
四国へんろ第三十六番札所 独鈷山(とっこざん)伊舎那院青龍寺。真言宗豊山派 ご本尊は波切不動明王
土佐市宇佐町竜163 三十五番札所から徒歩3時間。 高知県交通バススカイライン入り口下車徒歩1時間。
師匠・恵果のもとで空海(弘法大師)が真言密教を習得した「青龍寺」に行ってきました! お寺も重厚な建物ですが、実はこれは近年に再建されたものだとのこと。 青龍寺の創建は、隋の開皇2年(582年)。 その後、唐中期には、恵果らの密教僧らが住持するようになり、唐代の長安地図を見ると、青龍寺のエリアはかなり広いですね。 唐末五代の動乱によって、都の長安は急速に寂びれて、青龍寺も姿を消したそうです。 1982年以来、西安人民政府が、青龍寺の遺址と伝承されてきた石仏寺周辺の発掘調査を行い、多数の唐代の遺物を発掘し、この地がいにしえの青龍寺であったことを確かめ、再興を行ったそうです。 青龍寺は復興され、そこ…
第三十六番札所 独鈷山 青龍寺 (とっこうさん しょうりゅうじ) 住所 土佐市宇佐町竜163 電話 088-856-3010 清瀧寺から青龍寺まで 距離 13.5km 標高差 +55m -177m 清瀧寺から青龍寺まで 弘法大師は延暦二十三年(804)に唐へ渡り、長安の青龍寺で恵果和尚から真言密教の奥義を学ぶ。恵果は大師に遍照金剛の灌頂名を授け、その後入寂。大師は帰国の際、恩師に報いるため日本に青龍寺を作ろうと決意し、東の空に向かって独鈷杵を投げ、有縁の勝地が選ばれるよう祈願する。独鈷杵は紫雲に包まれて空高く飛び去ったという。帰朝後、四国を巡錫中の大師は独鈷杵がこの地の老松にあると感得し、とき…
第三十五番札所 医王山 清瀧寺 (いおうざん きよたきじ) 住所 土佐市高岡町丁568-1 電話 088-852-0316 種間寺から清瀧寺まで 距離 9.6km 標高差 +135m -8m 種間寺から清龍寺まで 養老七年(723)に行基がこの地にて霊気を感得し、薬師如来坐像を彫造。堂宇を建て本尊としたのが寺の始まりで、「影山密院釋本寺(たくもくじ)」と称する。弘仁年間(810〜824)に弘法大師が訪れ、五穀豊穣を祈願して閼伽井(あかい)権現と龍王権現を勧請するための壇を築く。十七日間の法を修めた大師が満願の日に金剛杖で壇を突くと、岩上から清水が湧き出て鏡のような池が現れた。そこで大師は寺の山…
前々回の記事でご紹介した青龍寺ですが、その翌日にまた訪れることになりました。 というのも前回の記事で、蔵を案内してくださった方のご親族が、なんとこの青龍寺の五重塔を建てられた棟梁さんだったのです...! 自分にとって2回目の見学であるこの日は、五重塔の中を見学させて頂き、なんとなんと特別に塔の一番上の階まで登らせて頂けたのですよ。 五重塔 | 昭和大仏 青龍寺(青森市) ↑ こちらがその棟梁さん、の銅像。 設計図としてこんなものが一応残っていますが、細かいところはすべて棟梁の頭の中で計算されていたそうです。想像もつきません。。 MIROKU BOSATSU 前回の蔵と同じで、青森ヒバという木で…
青森、続きましては青龍寺というお寺さんです。 昭和大仏という、青銅の座像では日本一の高さという仏像が有名らしいです。 (奈良、鎌倉よりも高いんだとか。) 奈良や鎌倉の大仏よりもスリムですね。 五重塔と枯山水をセットで見られる贅沢な眺め。 フォトジェニックな自転車がいました。シャボン玉を吹き出して。 さてしかしこの青龍寺、 翌日もう一度訪れることになります。。 (次の次の記事で書くつもり ☟道中に撮った写真を少し 何か良くないものを捕らえてくれているような。 ガマの穂。きりたんぽみたい。 続く。
・1922年に亡くなった際には日本相撲協会初の協会葬が行われたことでも知られる大相撲・第19代の横綱は? →常陸山谷右衛門 ・1923年に大相撲の力士たちが本場所の開催をボイコットした三河島事件の責任を取って廃業した横綱は? →大錦 ・1931年におこなわれた第1回全日本力士選士権で優勝した力士は? →栃木山守也 ・1937年に、史上初となる「還暦土俵入り」を行った大相撲の元横綱は? →太刀山峯右エ門 ・1967年公開の映画『007は二度死ぬ』に本人役で出演した当時の横綱は? →佐田の山 ・1972年の大相撲7月場所で外国出身力士として初めて幕内優勝を果たしたのは? →高見山大五郎 ・1972…
2024年(令和6年)4月11日(木)通算㉔日目 晴 高知遍路の続きを始めます! 前回は、……新型コ□ナ禍初年度の春🌸 その時の記事↓ nayumimahenro.hatenablog.com 奇しくも、前回最終日の、 2020年4月11日 から、 丁度4年目(!)の、 2024年4月11日 再開です 三3 ただ、実は、2022年5月に、 原付遍路で第36番~別格5番は、 打ちに来ておりまして…… その時の記事↓ nayumimahenro.hatenablog.com nayumimahenro.hatenablog.com 須崎までは到達しているので、 道の駅すさき~土佐新荘辺りから、 再…
誓願寺の境内には、そう古くはないが立派なシンパク(イブキ)がある。 香川県の保存木、誓願寺のイブキである。 シンパク なかなか樹勢のある良木である。 このシンパクの奥に、庭園があり、その上に阿弥陀堂が建つ。阿弥陀如来立像を祀っている。 庭園と阿弥陀堂 庭園 阿弥陀堂 唐破風下の彫刻 唐破風の下には獅子の彫刻があるが、裏側もきっちり彫られた名品である。 唐破風下の彫刻の裏側 手挟みの彫刻も、鳳凰が細部までよく彫られている。 手挟みの彫刻 阿弥陀堂の内部は、阿弥陀如来立像を中心として、その左右に諸仏を描いた掛け軸がかけられ、その左右に梵字で諸仏諸尊を表した法曼荼羅が掛けられている。これぞまさに密教…
皆さんは土佐市に行かれたことありますか? のどかな町並みと豊かな自然が広がる場所で、のんびり過ごしたい方にピッタリの町なんですよ。 今回は【自然の魅力であふれた町!土佐市のおすすめスポット】についてご紹介していきます。 ゆったりとした時間が流れる素敵な場所ばかりですので、ぜひ一度観光めぐりをされてはいかがでしょうか。 土佐市の魅力について! 狭い坂が続くカーブ道で有名?【清瀧寺】 アクセス方法 お寺めぐりには欠かせない!【青龍寺】 アクセス方法 ご家族でのんびり過ごしたい方におすすめ!【新居緑地公園】 アクセス方法 鯨の親子が目印の癒し空間!【宇佐しおかぜ公園】 アクセス方法 鯨を間近でご覧に…
空海は774年、四国・讃岐に地方官吏だった佐伯直田公(さえきのあたいたきみ)の子として生まれました。18歳で大学に入りましたがその2~3年後に山林修行に入り私得度僧として出家しましたが出家後の足取りは不明ですが、804年の32歳の時に最澄と同じ遣唐使船団で正式な僧侶として入唐します。空海がいつ正式に受戒得度したかは不明ですが一説には東大寺戒壇院で具足戒を受けたと言われています。入唐に当たって、最澄が還学生だったの対し空海は留学生でした。そこで最澄とは違い唐の都の長安まで足を延ばし青龍寺の密教系第7代祖師の恵果に師事しました。その密教の秘法を学んだ空海は翌805年に恵果から伝法阿闍梨の灌頂を受け…
円珍は円載との出会いを「在唐巡礼記」という書物に書き残している。この書は現存しないのだが、「在唐巡礼記」を要約した「行歴抄」という書物が後世になって編纂されたおかげで、2人の出会いはどんなものであったのかが分かるのだ。当該部分に手を加えて要約してみよう。 ――馬に乗って寺にやってくる老人がいた。兄弟子の円載だ。息せき切って彼の下に駆け寄って礼拝し、涙を流して喜んだ。ところが円載の顔には喜色はみえない。思いがけない反応に、頭から冷や水をかけられた思いであった。昔、比叡山で机を並べていた先輩後輩の仲であったのに、この態度はおかしい。一体どうしたことだろう。話をしても全く聞いていない様子。どうやら日…
久しぶりに天気が回復したので、昨日、以前から気になっていた所を訪れた。 これは、大谷選手の話題とは異なり、かなりマニアックで、古代に興味がない人には退屈な話だけれど、古代の重要鉱物である丹生=辰砂=硫化水銀や、現在、大河ドラマでやっている平安時代の10世紀から11世紀のことに関心のある人は、少しは気になる話かも。ただ、いずれにしろ、日本の歴史を捉え直すうえで、とても重要なこと。 昨日、私が訪れたのは、松尾大社の近くの私の家から、ちょうど真東に大文字山が見えるけれど、その少し南、安祥寺上寺跡というところ。 この場所に立つと、南側に山科盆地、その向こうに奈良盆地を見渡せ、盆地の彼方に、吉野の山々が…
種月寺から400m位離れた所に、「多宝山青龍寺(しょうりゅうじ)」があります。 多宝山の山懐に、ひっそりと佇む寺院です。 多宝山青龍寺の創立は、天平8年(736年)僧行基が北陸道を巡察した際、石瀬に 開山したと伝えられおり、岩室地区で最古のお寺です。 本尊は大日如来・薬師如来です。真言宗豊山派の多宝山青龍寺。昔は天台宗でした が、江戸時代に真言宗になったそうです。どういうことかな?・・・。 参道には、石積の塀(?)があったり、苔むした木の切り株などもありました。 参道自体は整備されて歩きやすいですが、この時期、雪も残っており、まだまだ 手入れは、行き届いていないような感じがしました。 「薬王橋…
高知県、愛媛県で出会ったお遍路は、徳島県と全然違う印象だった。 徳島県はお遍路でいっぱい。若い人、お年寄り、外国人、個人、グループ…たくさんのお遍路が歩いていた。 それが高知県、愛媛県は様子が一変。 1人歩き遍路が多かった。外国人、友だち同士、ご夫婦の遍路はグッと少ない。 白装束、命綱、ヘルメットでガッツリ武装している80代くらいのお遍路爺もいた。装備は凄かったけど、車遍路だったようだ。 般若心経を誦じているベテラン遍路も多かった。 徳島では一回しか団体バス遍路に会わなかったけど、今回はけっこう出くわした。添乗員が大量の御納経帳やお軸をカバンに入れて納経所に運搬してくるんだよ。遍路のブログ読ん…
最澄は822年に、空海は835年に遷化する。(なお空海は死んではおらず、生死の境を超えて永遠の瞑想に入っていることになっている。高野山奥之院にいる彼のもとに、1日2回食事と着替えが届けられる、という儀式が今も行われている。)この二大巨頭の死後、2つの教団はどのように発展していったのだろうか? まずは天台宗から。最澄の死後、彼の後継者たちは未完であった天台宗の教義の確立をせんとする。だが空海の真言宗との関係性は途絶え、これ以上の密教経典の借用は望めない。ならばいっそ、ということで改めて遣唐使の船に乗って、本場の密教を学び直しに行ったのである。倭寇の時代とは大違いで、当時の日本の航海技術は極めて低…
令和5年(2023年)4月17日の記録です。 三陽荘さんのオーシャンビューのお食事処で、朝食をいただきました。 今までで最もおしゃれかも。 三陽荘さんに荷物を置いたまま、次の札所、青龍寺さんを目指します。 沼地のほとりをてくてく朝のおさんぽ。 すぐに36番札所の青龍寺さんにつきます。 お参りを済ませて、今来た道を戻って、三陽荘さんをチェックアウト。 どうやらお天気には恵まれた一日になりそうです。 昨日来た道をさらに戻ります。 宇佐大橋から湾内方向を望んでいます。 湾内なのにすごく水がきれいです。 青龍寺さんから先は主に3つのルートがあるそうです。 湾の北岸を沿う道。 青龍寺さんから半島の尾根を…
密教を日本に持ち込み、更にその教義を発展させた空海。新興勢力であったにも関わらず、官寺である東寺まで賜り、これを密教の専修道場とするなど、日本において確固たる地位を築き上げたのであった。一方、日本仏教界のもう一方の新星であった、最澄はどうであったのだろうか? 日本において「天台宗」を開宗するため、天台の教えを学びに大陸に渡った最澄。帰国してから念願叶い、天台宗は南都六宗に肩を並べる存在になったわけだが、当時の皇室と貴族には、現世利益を叶えてくれる最新の教えであった「密教」のほうがウケが良かったのは、過去の記事で紹介した通り。そこで求められるまま灌頂や加持祈祷を行ったわけだが、己の密教に対する力…
青森駅に常設されているスタンプは矢田前駅までです。 描かれているのは駅南東に位置する青龍寺の通称「昭和大仏」と五重塔です。 「昭和大仏」の正式名称は大日如来像。 高さ21.35mで青銅坐像としては日本一とのこと。
密教はインドにおいて発生した、仏教の一派である。初期の密教は呪術的な要素が多く入っており、極めて土俗的な性格が強いものであった。こうした初期密教を「雑密」と呼ぶ。例えば、初期に成立した「孔雀王呪経」は毒蛇除けの護身呪であり、おまじないに近いものだった。 だがその後、インドでは後発のヒンズー教が急速に力をつけてくる。これに対抗する必要上、密教の理論化が進んだため、洗練された教義に生まれ変わった。これが中期密教である。 唐が西域まで進出したことにより、8世紀前半にインドから中国に入ってきたのが、この中期密教であった。伝えられたのは、主に「大日経」と「金剛頂経」の2つの経典であるが、この2つは中国に…
奈良期は日本の歴史上、仏教が最も権力と結びついた時代である。それがピークに達したのが、769年に発生した政治僧・道鏡による皇位簒奪の動きである。この企て自体は失敗したが、こうした動きに象徴されるような寺社勢力の強大化、そして僧侶の退廃ぶりも目立つようになってきた。 794年、桓武天皇による平安遷都が行われる。目的のひとつは政界からの寺院勢力の排除であった。「仏教都市」であった平城京には、数多くの巨大寺院が存在したが、新都である平安京には(当初は)東寺と西寺、この2つの官寺しか許されなかったのである。 桓武天皇は他にも、新規の造寺・寺院による土地購入・営利事業の禁止などを定め、寺社勢力の力を抑え…