明和3年(1766年)2月20日〜天保6年(1835年)12月17日
江戸後期の国学者・福岡藩士。初めは種麿といい、やがて柳園と号し、勝次との通称を持った。
青柳勝種という足軽の子として地行(現在の福岡県福岡市中央区地行)に生まれ、やがて本居宣長に弟子入り。筑前三大地誌の一に挙げられる『筑前国続風土記拾遺』はあまりに有名であるが、このほかにも地誌類や考古学上の数多の業績を遺し、70歳で没した。
墓は祖原(現在の福岡県福岡市早良区祖原)の顕乗寺に眠っている。
参考資料:青柳種信