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近藤貞雄

(スポーツ)
こんどうさだお

プロ野球選手・指導者・解説者。通称「日本のビリー・マーチン*1」。
右投右打、ポジションは投手。背番号は5→61→81番。

1925年10月2日生まれ。愛知県出身。
1943年、西鉄軍に入団。しかし資金難のため1年で解散。
徴兵による選手不足に悩む東京巨人軍から申し出があり、1944年、黒沢俊夫らと共に移籍した。

プロ野球が再開された2年後の1946年、23勝を挙げる。
しかし、秋季キャンプで滞在の愛媛県松山市で散歩中、進駐軍のジープにはねられ右手中指を負傷。

戦後混乱期にあって迅速な治療を受けられず神経に深い傷を残してしまい、満足な投球が出来なくなり巨人を自由契約。

1948年、中日ドラゴンズに移籍。
移籍1年目の1948年、独特の3本指で投げる「疑似チェンジアップ*2」を開発し同年6勝、1949年7勝、1950年10勝と活躍。


1954年、日本一を機に現役引退。
その間24勝をマーク。奇跡のカムバックは「人生選手」と題した映画になった。


1955年、中日ドラゴンズの投手コーチに就任。
権藤、権藤、雨、権藤雨、雨、権藤、雨、権藤」とまで言われた権藤博の起用法を反省。

板東英二をリリーフ投手にし、先発とリリーフの「投手分業制」を確立した。


1969年、ロッテオリオンズの投手コーチに就任。1971年まで務める。

1972年、中日ドラゴンズに投手コーチとして復帰。

1974年、与那嶺要監督の下、セ・リーグ優勝に貢献。

1981年、監督に就任。「野武士野球」をスローガンにうち立てて、強竜打線を形成、1982年のセ・リーグ優勝を成し遂げた。

また、スタメンと試合終了時でメンバーがらりと変える「アメフト野球」など、アイデアマンとしても有名であった。

1983年、退任。

1985年、横浜大洋ホエールズの監督に就任、加藤博一屋鋪要高木豊の3名を「スポーツカートリオ」として形成。
1986年退任。

その後CBC野球解説者を務める。


1990年、大沢啓二の招聘により、日本ハム・ファイターズの監督に就任。
西武包囲網」などで注目を浴びる。

1992年、退任。


晩年はCBCの野球解説者に復帰。

1996年より中日ドラゴンズのOB会長に就任。名古屋の重鎮として活躍した。


1999年、野球殿堂入り。

また、2001年から2003年までマスターズリーグ・名古屋エイティディザーズの監督を務めた。


2002年、OB会長を中利夫に禅譲。阪神タイガースに移籍した星野仙一をOB会より追放した。


2006年1月2日、呼吸不全のため東京都内の病院で逝去。

*1:監督時代のユニークなアイデア、両腕を後ろに回しての猛抗議、強引な手腕から命名。

*2:後のパームボールとして知られる。日本で最初に投げた。

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