1.日本の律令制において、太政官が政務に関して審議し、結論が出た事柄について、天皇に上奏すること。 2.日本の源頼朝が朝廷に置いた職。1185年に後白河院に対して、源頼朝が親幕派の公卿10名を推挙して、政務を合議させ、朝政を担当させた。 3.日本の江戸時代に朝廷に置かれた職。天皇に近侍し、口勅を公卿以下に伝え、上奏を取り次いだ。
百人一首第81番目の歌の作者は後徳大寺左大臣ごとくだいじのさだいじんです。 後徳大寺左大臣とは藤原実定のこと。 後とつくのは、祖父の徳大寺(藤原)実能が徳大寺左大臣と呼ばれていたことから。 今回は後徳大寺左大臣について紹介します。 後徳大寺左大臣とは 生年は1139年、没年は1192年。 晩年は源平の騒乱の渦中に生きました。 官位は正二位、左大臣。 若くして公卿に列せられたが、平清盛が権勢の中心にいた時期は不遇であった。 平家衰亡のあとは、源義経を立て、源頼朝追討に賛同。 源義経は結局都落ちしますが、その後源頼朝により議奏公卿に推挙されます。 それからは朝廷と幕府の間での調整役として働きました…
1)第10段 後半 要旨 兼好は、「家の話」繋がりで、豪奢な邸宅に執着する「屋根の上に張った縄」の昔話を持ち出します。それは、兼好自身が一見それと似たような状況に出くわしたことがあったからなんですが、「あの昔話には別の一面があったんじゃないか」と、家造りの話から若干焦点ズレます。 その昔ばなしに登場した面々(NHK大河「鎌倉殿の13人」世代)を追っかけ、昔ばなしの場面時期を妄想してみたり、兼好がその昔ばなしを思い出した界隈などへも思い馳せます。 0)前置き 以下の4点を参照しつつ『徒然草』を、下手の横好き読解しています。 ①旺文社文庫『現代語訳対照 徒然草』(安良岡康作訳注/1971初版の19…
高山彦九郎の場合、幕府の監視の目が厳しくなり、包囲網の強化から追い詰められた結果、「自刃」という悲劇的な結末となりました。 朝廷に対しては、尊号の宣下は「決してご無用の事」としてきっぱり拒絶するとともに、この騒動を起こした責任者として、議奏を務めていた中山愛親と武家伝奏の正親町公明(おおぎまち きんあきら)他1名の公家の江戸召喚を朝廷に通告します。 京都御所今出川御門(向かいの同志社大学正門付近で撮影) 強行すれば、なし崩し的に認められるだろうと甘く考えていた朝廷は大慌て。尊号宣下を取りやめ、なので3名の呼出しは無用、とことを済まそうとします。が、幕府(定信)はそれを許さず、寛政五年(1793…
水落(読み)みずおち 精選版 日本国語大辞典 「水落」の意味・読み・例文・類語 みず‐おち みづ‥【水落】 〘名〙 水の落ちる所。 ※作庭記(1040頃か)「滝をたてむには、先水をちの石をえらぶべき也。其みづおちの石は、作り石のごとくにして、面うるはしきは興なし」 作庭記(読み)さくていき 精選版 日本国語大辞典 「作庭記」の意味・読み・例文・類語 さくていき【作庭記】 平安時代の造園秘伝書。一巻。九条良経著と伝えられてきたが疑問。橘俊綱著とされる。長久元年(一〇四〇)頃の成立か。立石、中島、滝、遣水などに関し、造園上の要や用語、禁忌について述べる。前栽秘抄。園池秘抄。 九条良経 10の言語版…
1846年10月19日(弘化3年8月29日)、幕府へ海防強化及び対外情勢の報告を命じ、幕府は異国船の来航状況を報告した。翌1847年4月23日(弘化4年3月9日)、学習所(学習院)の開講式が行われた。6月8日(旧暦4月25日)、石清水臨時祭にあたり外夷を打ち払い四海静謐を祈った。10月31日(旧暦9月23日)、即位の大礼が行われた。11月4日(旧暦9月27日)、将軍である徳川家慶、世子である徳川家定の名代が京都所司代の酒井忠義と参賀した。代始の改元は、1848年4月1日(弘化5年2月28日)に行われ、元号は嘉永となった。また、侍講の中沼了三を学習院の儒官に任命した。 1850年5月19日(嘉永…
この問題は、拙書「最後の将軍徳川慶喜の苦悩」で取り上げているが、最近得た資料で若干の訂正をする必要もあり、改めてこの問題を取り上げてみたい。 尚、以下の記載は、10月14日、横浜南ロータリークラブにて行った講演原稿を若干加筆修正したものである。 徳川慶喜と兵庫開港問題 幕末政局の転換点 1、兵庫開港問題とは 1858年7月29日(安政5年6月19日)、井伊直弼を中心とする徳川幕府はアメリカ合衆国との間で日米修好通商条約を締結し、その後、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を締結した(いわゆる安政五カ国条約)。 この条約では、今後5年以内(1863年1月1日、文久2年11月12日)…
・文保2年(1318) 2.26 花園天皇は譲位し、尊治親王が践祚した(後醍醐天皇)。(『園太暦』) ※後醍醐天皇の践祚は、その父,後宇多院が再び院政を敷くことを意味した(森茂暁『後醍醐天皇』)。 ※当時として、31歳の践祚は異例なほど遅いものであった。しかし、天皇になるまでに時間があったために、彼は朝廷政治の知識を身につけることができた(中井裕子「後醍醐天皇」『室町・戦国 天皇列伝』)。 ・文保2年(1318) 3.9 邦良親王は立太子した。(『継塵記』) ・文保2年(1318) 3.30 花園院はこの日、後醍醐天皇の践祚に関して、「定めて天の与うるところか」と日記に所感を記した。(『花園天…