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言語ゲーム

(一般)
げんごげーむ

ウィトゲンシュタインの概念。

「アウグスティヌス」的な在来の言語観を批判して提出された、あらかじめ設定されたルールを前提にするわけではないが、実際の会話の中で更新され生成されるルールセットからなるものとして、ゲームの類比でとらえられた言語観。言語の記号的、表象代理的側面ではなく、機能的側面をより基本的なものと見る。

「すなわち、年長者たちが或るものの名を呼び、その音声に従って、身体を或るものの方へ動かしたとき、私は、そのものを私に示そうと思う際には、彼らはその発する音声によってそのものを呼ぶということを見て、覚えた。彼らがそのものを私に示そうとすることは、いわば万民共通の自然の言語によって明らかであった。そしてこの言語は、顔つき、目つき、その他四肢の動き、音声の響きからできていて、もの求め、手に入れ、斥け避けようとする心の動きを示すものである。このように、いろいろな言葉がさまざまな文句のうちにしかるべきところで用いられているのをしばしば聞いて、私はそれらの言葉がどのようなものの符号であるかを推知するようになった。そして私の口はそれらのしるしに慣れてきて、私はもう自分が心に思うところそれらによって告げるようになった。」
私の思うに、人間の言語の本質について、この文章は一つのはっきりした像を示してくれる。すなわち、言語に含まれている語の一つ一つが何らかの対象を名指しており、文章はそのような名称の結合である、というのである。この言語像のうちに、次のような見解の根源があるといえよう。すなわち、どの語も一つの意味を持つ、この意味と語との間に対応の関係がある、意味とは語が代表する対象のことである、というものである。
語の種類別については、アウグスティヌスは語らない。言語の学習をこのように記述する人は、おそらく「机」「椅子」「パン」といった名詞や人々の名前のことをまず思い、二番目にやっと或る種の動作や性質の名について考え、残余の種類の語については、なるようになると考えているのではないであろうか。
次のような言語使用のこと考えてみよう。私が誰かを買い物にやる。彼に「赤いリンゴ五つ」という記号の書いてある紙片を渡す。彼がその紙片を商人のところに持って行くと、商人は「リンゴ」と記された箱を開け、次いで目録の中から「赤い」という語を探し出して、それに対応している色見本を見つける。それから彼は基数の系列―それを彼は諳んじていると仮定する―を「五」という語まで口に出し、それぞれの数を口に出すたびにサンプルの色をしたリンゴを一つずつ箱から取り出す。―このように、あるいはこれと似た仕方で、人は言語を繰るのである。―「しかしこの商人は、どこでどのようにして<赤い>という語を調べたらよいか、また<五つ>という語に対してどう反応したらよいか、をどうやって知るのだろうか。」―私はただ、いま述べた通りに彼が振る舞うと仮定している。説明はいずれどこかで終わるものである。―しかし「五つ」という語の意味は何なのか。―そういうことはここでは全く問題なっていない。どのように「五つ」という語が使われるか、ということだけが問題である。(『哲学探究』第一部一節)

右述べた哲学的な意味の概念は、言語の働き方に関する或る原始的な観念に根ざしている。しかしそれは我々の言語に比べて、より原始的な言語の観念であるともいえよう。
アウグスティヌスの与えた記述が当てはまる言語を一つ考えてみよう。それは建築家Aと助手Bとの間で意思疎通のために用いられる言語である。Aは石材によって建築を行う。石材には台石、柱石、石版、梁石がある。BはAが必要とする順序にしたがって、次々に石材をAに渡さなければならない。その目的のために、二人は台石、柱石、石版、梁石という語からなる一つの言語を使用する。Aはこれらの語を叫ぶ。―Bは教えられた通りに石材を持って行く。これを完全な原始的言語と考えよ。(『哲学探究』第一部二節)

http://www.ne.jp/asahi/village/good/wittgens.html

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