50〜60年代のプロ野球、読売ジャイアンツの選手・監督。
通称「瞬間湯沸器」「悲劇のエース」「ガンジー」「球界の紳士」。
右投右打、ポジションは投手。背番号は21→18→81→73番。
1931年8月7日生まれ。愛媛県新居浜市出身。
西条北高*1から慶應義塾大学のエースとして通算31勝を記録。
卒業後、日本石油に入社。右の速球派投手として活躍し、1956年の都市対抗野球優勝に貢献。
1957年、読売ジャイアンツに入団。1年目で17勝を挙げて新人王獲得。
1958年に29勝、1959年には最多勝の27勝をあげてMVP。
エースナンバーを背負い、1950年代のエースとして1955年からチームの5年連続リーグ優勝に貢献。
しかし、チームは日本一にはなれず、特に1958年は3連勝後4連敗するなど「悲劇のエース」あるいはその耐え忍ぶ姿から「ガンジー」とも呼ばれた。
ジャイアンツの第2期黄金時代を支えた。
しかし、登板過剰により肩を壊し、1964年、現役引退。現役8年間で119勝88敗。
引退後、川上哲治監督の下で読売ジャイアンツの投手コーチに就任。V9に貢献。
1974年、川上監督とともに退団。
1975年、大洋ホエールズの投手コーチに就任。1976年、退団。
1981年、読売ジャイアンツの監督に就任。
藤田監督、王貞治助監督、牧野茂ヘッドコーチの「トロイカ体制」と呼ばれた。
川上哲治の管理野球を踏襲し、監督就任1年目でリーグ優勝、日本一に導く。
原辰徳や松本匡史を育て、世代交代に着手した。
1983年にもリーグ優勝を果たす。同年、王貞治に監督を譲り、退任。
1989年、再び監督に復帰。
コンバートや川相昌弘、緒方耕一などを台頭させ内野手を強化。
また、投手陣を整備し、斎藤雅樹や桑田真澄、宮本和知を一流の投手に成長させる。
管理野球と人情に溢れる采配でセ・リーグ優勝に導く。
同年、仰木彬監督率いる近鉄バファローズ相手に3連敗からの4連勝で日本一に輝いた。
投手力を確立させ、翌1990年もリーグ優勝に導いた。
1992年、監督を勇退。
退任後はNHKの野球解説者・財団法人世界少年野球推進財団専務理事として活躍。
また、沢村賞、正力松太郎賞の選考委員として、永きに渡り活躍。
1996年、野球殿堂入り。
2000年、別所毅彦の死去を受けてOB会会長に就任。
2004年、OB会長を長嶋茂雄に譲る。
2005年、四国アイランドリーグ・愛媛マンダリンパイレーツのアドバイザリースタッフに就任。
2006年2月9日、心不全のため東京都内の病院で逝去。
*1:現西条高校