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義和団事件

(社会)
ぎわだんじけん

義和団の乱、義和団事変、北清事変とも。19世紀末の清帝国北部で起きた排外主義的民衆蜂起とそれに乗じた戦争。

1900年5月まで

義和団は山東省で結成された農民の自警団であり、宗教的な側面を持つ秘密結社でもある。武術義和拳を起源とするとも、白蓮教の流れをくむとも伝えられ、貧困と19世紀グローバリズムに苦しむ農民たちの不満の受け皿として大いに成功した。
さて、1897年にはドイツ帝国が膠州湾を含む地域を占領して軍港と鉄道の建設を含む帝国主義的行動を行っていた*1ことで、民衆の間ではさらに排外的な空気が醸成されていった。そして彼らはその怒りの矛先を、同地で布教を行っていたカトリック教会へと向けた。教会は人々を苦しめる西洋の先兵であり、先祖代々の信仰を破壊する存在であるから、排除されねばならないというわけである*2


山東省当局がこれを取り締まらなかった*3、どころか1899年に当時の山東巡撫*4がこれを奨励するような動きを見せたため、民衆蜂起は猖獗を極めた。彼らは「扶清滅洋」というスローガンを掲げるようになった。つまり清を扶けて西洋列強を滅ぼせとの意である。
といってもさすがに事態が拡大しすぎたので、清朝はこれを治めるべく新たな山東巡撫として超大物・袁世凱を起用した(1899年12月)。もちろん袁世凱が手ぬるいすることはずもない。着任するや、実力でもって運動を弾圧にかかり、たちまち山東省での事態は沈静化したかに見えた。
が、実際には弾圧されたことで逃げ出した義和団のメンバーが、華北から東北一帯へと流入・拡散していた。当然排外運動も各地で盛り上がりを見せつつ拡大する。これを見た清朝指導部の保守派は、
「みんな『扶清滅洋』って言ってんだから、これに乗っかって列強を追い出せばいいんじゃないの?」
とかうっかり考えてしまう。西欧列強のヤバさを知る洋務派はこれに反対するも、もとよりここまで拡大してしまった運動を鎮圧するのも難しい。首都北京を含む地域にも排外運動*5が及ぶ勢いだった。


このような状況下で1900年5月20日、北京駐在の列強11カ国の公使による会議が行われ、清朝政府に対して義和団の鎮圧を求めた。といってもその程度で収まるようであればここまで事態は悪化するはずもない。公使会議は5月28日に「治安の悪化は座視できない」として*6在外公館保護のための兵力を北京に呼び寄せた。これにより5月31日に八カ国約400名の兵力が北京市の公使館地区に入った。
この規模の兵力では治安回復に乗り出せるようなものではない。いやむしろ、首都に外国の軍隊が入ったという事実それ自体が民衆を刺激する面もあった。

宣戦布告

6月3日、北京−天津間の鉄道の駅や橋が破壊されて不通となったことで、北京の外国人たちは外部との連絡が絶たれつつあった。
6月6日、公使会議は清に対して義和団の鎮圧を改めて求めた。また、それが実施不可能な場合は列強が自前で鎮圧する意志であることも伝えた。列強の意識では安全保障上の当然の要求ではあるが、これはある意味では最後通告に近い*7もので、清朝政府に大きな衝撃を与えた。
6月10日、清朝政府での政争がついに決着し、排外主義に同調する保守派が勝利した。北京周辺地域は義和団の大群によって占拠され、公使館地域は駐留軍もろともに包囲された。同日、イギリス東洋艦隊のシーモア提督が2000の救援軍を北京に送り込もうとしたが、清兵と義和団によって阻止された。
もともと、清朝宮廷内部で最高権力を握る西太后は列強勢力を快く思っていなかった。6月11日には日本の外交官が殺害される事件も起きており、また、6月17日には天津の外港大沽(タークー)で清国の砲台が列強の軍艦と交戦しており、事態は後戻りのできない段階に達していた。
6月19日に清は24時間以内の外国人全員の北京からの退去を求める最後通告を行う。外国人皆殺しを目論む義和団の大群に包囲されている状況下で、そんな行動が無理なのは明白である。驚いて交渉のために出向いたドイツ公使は清軍によって殺害され(6月20日)、事実上の交戦状態となる。
6月21日についに清は列強に対して宣戦を布告した。

北京の55日

とはいうものの、そもそも実力で劣っていたから列強の進出を受けていたのであって、戦ったら勝てるという目算があったかというと、そういうものでもない。義和団と清軍は公使館地区を繰り返し攻撃したが、列強筆頭たるイギリスのマクドナルド公使の下に各国はまとまっており、寡兵よくこれを食い止めている*8


また、包囲の外でも列強による救援軍が編成されていた。距離的にもっとも近い日本が兵力の過半を拠出*9、日露英仏米独伊墺の8カ国*10による連合軍が結成される。
ロシア軍の動きが悪いという問題などもあった*11が、北京情勢が予断を許さぬものであったため、連合軍は行動を開始する。
まず7月14日に北京への入口である天津を攻略した。ここに兵力を集積した後、8月には2万強の兵力で北京へ向けての進撃を開始した。
8月14日に連合軍は北京攻撃を行って公使館地区の救援に成功、西太后をはじめとする清朝首脳部は北京を捨てて逃亡し、義和団事件は事実上終了した。

その後

連合軍は北京付近で掃討作戦を行い、また、報復を口実に北京市内で激しい掠奪を行った。
一方で列強と清朝の間で交渉が始まり、ほぼ一年を費やした交渉の末、翌年9月に辛丑条約が結ばれ決着した。これにより以下のような過酷な条件が清に課せられた。

  • 首都北京から海岸部までの武装解除と、列強の軍隊の駐留の承認
  • 公使館区域への清国人の居住禁止と治外法権(公使館への警察権の移管)
  • 排外主義団体の禁止及び取り締まり
  • 事件に対する謝罪と賠償金4億5000万両の39年賦払い

以上のように義和団事件の再発防止を目的として、清の主権を(部分的とはいえ)否定する措置が盛り込まれている。列強が民衆運動を恐れて清帝国領域を直接に植民地化することは諦めたと言えなくもないが、何にせよ清朝政府の権威を低下させたのは確かで、最終的に辛亥革命へと繋がる進路が敷かれたことになる。
賠償金は清の年間予算に数倍する法外な額であり、これを回収するために列強は関税収入を担保とした。このため清朝政府の歳入が激減したのも同然の効果を生んだ。結果として清(及び後継国家の中華民国)の財政基盤を弱体化させ、中央政府の力を弱めて軍閥割拠の状況を生む一因となっている。

*1:ついでに、1898年にはイギリスが威海衛を租借地としていた

*2:もともと清帝国における反キリスト教運動は「仇教運動」として、1860年代から地道に続いていた。キリスト教会は政治的働きかけによって布教に関して特権をしばしば与えられていたし、キリスト教じゃない信仰=異教であるから、確かに「先祖代々の信仰を破壊する存在」ではあった

*3:というよりも清朝の中央からして守旧派(保守派)と改革派(洋務派)に分裂して方針が定まってなかったが

*4:清の地方官の一。その省の長官。行財政と司法と軍事を統括する

*5:排外と書いたが、外国人のみならず中国人キリスト教徒にも迫害は及んていた

*6:清へ通告の上で

*7:お前ら自前じゃ治安維持もできない無能な政府らしいんで、そっちの主権は無視してウチらで勝手に軍事力を使わせてもらいますよ、と言ってるのも同然

*8:籠城軍中で最高の軍事的才能の持ち主は日本の駐在武官柴五郎中佐で、籠城中の活躍によってマクドナルド公使の信頼を得ている

*9:ただし、これとは別にロシアは満州全土の占領を目論んで大軍を動かしていた

*10:兵力順に記載

*11:先述のように、満州に領土的野心を持つロシアとしては、満州を占領するまでに決着が付いては困るので、なるべく戦争状態を長続きさせようとしていたとされる

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