1541年(天文10年)〜1582年
戦国時代武将。甲斐武田家臣で御一門衆。「梅雪斎不白」は号で、名は「信君」。
父は穴山氏当主穴山信友、母は武田信虎の娘で武田信玄の姉にあたる南松院殿で、梅雪も信玄の娘見性院を室とし、「武田」姓を裁許された御一門衆の筆頭格となる。穴山氏は代々駿河今川家との関係も深く、信玄が今川領へ侵攻すると河内領の支配のほか、旧駿河江尻城代となる。
信玄の死後、当主となった武田勝頼から離れ、天正10年には織田信長・徳川家康の侵攻を先導した。梅雪は信長から河内領の安堵を約束され、返戻のため家康と安土城を訪れていたが本能寺の変に遭遇し、帰国途中に土民の襲撃によって死亡した。
甲斐は天正壬午の乱を経て家康が確保し、家康は梅雪の遺児勝千代を庇護し穴山武田家の存続をはかったが、勝千代の夭折により穴山氏・武田家は滅亡する。