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的を得

(一般)
まとをえ

的を射る あるいは 当を得る の誤用。
誤用ではない、という説もある。これは“「正鵠を得る」から来た言葉であるから、「得る」でいい”という説であるが、「正鵠を得る」から「的を射る」という言葉が生まれたという経緯については裏付けがなく、推測にとどまっている。
どの辞書にも「的を射る」しか載っておらず、やはり「的を射る」とするのが正答と見て間違いないようだ。


ちなみに、文化庁による平成15年度「国語に関する世論調査」によれば、54.3%もの人が「的を得る」という間違った表現を用いるという結果が出ている。これは正しい表現である「的を射る」の38.8%より高い。


追記:以下のような意見もあるので、正誤については各自で判断するべきであろう。

この「的を得た」という表現をあげつらって、“「的を得た」なんていう子供なみの日本語の間違いを堂々とHPに載せているくせに、よく他人の非難ができる”などと書いている掲示板があります。これはよく流布している無知からきています。射撃の場面を想像して「的を得る」はずがない、「的を射る」ものだ、という誤解です。これは漢語に由来する表現であることを知らず、日本語として「的を得る」はずがない、と思ってしまうのです。語源の『大学』・『中庸』にあるように、「正鵠(せいこく)を失う」という表現からきています。この場合の正鵠は「正も鵠も、弓の的のまん中の黒星(『角川漢和中辞典』)」のことで、射てど真ん中の黒星に当てることができたかどうか、当たったら「得た」といい、はずれたら「失う」と表現していたのです。矢で的を射るのは当り前としても、必ずしも的に、まして正鵠に当たるかどうかは示していない表現が「的を射る」です。たとえば、“[中庸、十四]子曰く、射は君子に似たる有り。諸(こ)れ正鵠を失するときは、反って諸れを其の身に求む。(平凡社『字通』白川静著)”と「失する」という表現をしています。「失」の反対は「得」であり、「射」ではないのです。そうでなくても、もともと「得」という字には「あたる」という意味があります(白川静の前掲書)。いつのまにか「正鵠」という分かりにくいことばを使わず「的」に省略し、「的を射る」という悪貨が「的を得る」という良貨を駆逐していて、日本の国語辞典にも浸透しています。「的を得る」という表現は、日中出版『論語の散歩道』重沢俊郎著(p.188「それが的をえていればいるほど」)や、大修館書店『日本語大シソーラス』山口翼編の「要点をつかむ」という項目にもあります。また小学館の『日本国語大辞典(12)』にも「まとを得る」があり、中国文学の京大助教授・高橋和巳の小説から「よし子の質問は実は的をえていた」を引用しています。
 また読者から教示していただいて分かったのは、現代の中国でも「正鵠を得る」という表現があることです。王鳳賢著の中国語論文「毛澤東的倫理思想及其傳統文化背景 」に、人人皆得其正鵠矣(じんじんみなそのせいこくをえたり)と(ちなみに、明治書院の漢文大系『中庸』には正鵠に(まと)という読み仮名をあてています。)。
http://www.people.com.cn/BIG5/shizheng/8198/30446/30451/2210697.html 
 教示に刺激されて調べたら、幸田露伴の『武田信玄』の中の一説に「無事(ぶじ)の世(よ)に於(おい)てさへ正鵠(せいこく)を得(え)ぬ勝(がち)である……」とありました。
http://www.j-texts.com/rohan/shingenr.html
 わたしは「正鵠を射る」や「的を射る」という表現を誤っていると言っているのではなく、たんに「的を得る」という表現がまちがいである、ということに抗議しているだけです。ことばは生き物です。時代によって変化するものであることは承知しているつもりです。それと「的を射る」という表現は即物的でつまらないなあ、と思うのです。

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