頼山陽が著す歴史書。二二巻。1826年成立で、36年頃刊。 源平二氏から徳川氏まで武家の盛衰興亡の歴史を流暢な漢文体で記す。 情熱的な文章によって愛読され幕末尊王思想に影響を与えた。
頼山陽一人で、少ない史料をもとに作ったもので、史実に誤りが多いとされている。 が、その主目的は歴史によって尊王思想を鼓吹することにあり、 維新志士の愛読書物としてこそその真価がそこにあるではないか。
祖母の嫁入り箪笥は、祖母の次男宅に移されましたが、この箪笥に収められていた形見の品々も引き継ぎ、孫の私が保管・管理することになりました。 順を追って写真で説明します。 箪笥の一番上の引き戸に、箪笥を嫁入りする時に使った提灯が大切に収められている。 提灯行列の先頭の人が持った提灯。 提灯を吊るす独特の手提げ棒が素晴らしい。 100年以上経っているが、色あせはあるものの損傷は全くない。蝶の絵柄が特徴 今でも、ろうそくを灯せば、提灯として使える。 提灯のとなりに保管されていた、愛国婦人会の物の思われる携行バック 内側の名札に祖母の名前が記されていた。 太平洋戦争中の物 麻で出来ている。 80年以上経…
「日本三大奇襲って何?」 「日本三大奇襲は誰が命名した?」 「桶狭間の戦い、河越の戦い、厳島の戦いの共通点は?」 このページをご覧の皆様はそんな疑問を持っているかもしれません。日本三大奇襲とは「桶狭間の戦い」、「河越の戦い」、「厳島の戦い」の3つをまとめた呼び名です。名付け親は江戸時代の歴史家で『日本外史』を著した頼山陽でした。 いずれの戦いも、数的に不利だった「弱者」が数的に有利な「強者」に勝った戦いでした。 今回は、日本三大奇襲それぞれの戦いの内容、共通点などについてまとめます。 戦国時代に興味がある方は、こちらの記事もどうぞ! kiboriguma.hatenadiary.jp kibo…
白鳥舘本丸の北側は崖で、登ろうとする官軍に木や岩を投げ落とせるには十分な高さかと。 白鳥舘は南側は平坦地で攻められやすいが、北側の崖からは攻めにくい。 地方史から見ると前九年合戦で官軍は貞任を追い、瀬原柵→照井舘陣場→大麻生柵→白山→姉体と攻める。この時白鳥舘は素通りではないか。貞任はあえて攻められやすい白鳥舘を通らなかったのでは。 日本外史では、厨川の後で、比與鳥城、鶴脛城を倒すとある。 厨川あるいは、鳥海柵から官軍の一部が南側へ戻り白鳥舘(比與鳥柵)を攻めたなら北側の崖から攻めることになる。これも貞任の作戦ではないか。
3月1日(金)Tさんが、Iさんの退職前のご挨拶に来られる。3人で「アルカサール牧場」でランチ。 retty.me 3月2日(土)『秘密の花園』を読む。面白さ続く。『BLUE GIANT EXPLORER』9巻、『BLUE GIANT MOMENTUM 』1巻を読む。夜、「東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜」を見る。俳優陣が皆よかった。同じ東京で、自分とはまった別の世界で、ただどこか憧れの世界で生きている人々の人間模様が垣間見られたという意味でもよかった。 BLUE GIANT EXPLORER(9) (ビッグコミックス) 作者:石塚真一 小学館 Amazon BLUE GIANT M…
日本外史137頁 城後の山を伝わりて夜に紛れて逃げる。 寄り手を塀に誘い木石を投げかけて圧殺されないように進むなと・・・ 鉤縄を取り出し石垣へ投げかけて、馳せ登り城に入りて・・ (著者) 鶴脛城は城壁のある城、後ろが山つづき、北上相去の「相去城」か江刺稲瀬「鶴脛台」か。 仙台叢書 437P 鶴脛柵跡 相去村(鶴野城) 正任が籠城、官軍と戦うが戦利あらず。ついにこの柵敗亡して正任源家へ降参。 (著者)要害の地で石垣もありそう。だが、八幡太郎義家が正任黒沢尻を攻めるとあるので、相去村「相去城」(別名「鶴野城」)の鶴脛説は、黒沢尻戦のことを指しているのか?
日本外史133頁 城塀に鈎縄手を投げかけて躍り入ろうとする所に、城中よりかねてより用意していた大木・大石を投げ下ろす。…打ち殺される者数十人におよぶ。 (著者) 江刺稲瀬の「鶴脛台」には、高い崖はない。 前沢白鳥の「白鳥館」は、岩の崖の上に館跡がある。ただし、崖は北側にある。鳥海または厨川から南の白鳥城に戻るのであれば、この城塀は活用できるのでは。
官軍は、二手に分かれた。 ①八幡太郎義家は、黒沢尻から厨川へ ②加藤景道・荒川太郎は、鶴脛・比與鳥へ 陸奥話記 ①正任が居る所の、黒沢尻柵を襲いてこれを抜く。… ②又鶴脛・比與鳥の二柵、同じくこれを破る。 同14日、厨川に向かう。(①) 前太平記 鳥海から ①八幡太郎義家は、黒沢尻へ ②鶴脛・比與鳥へ、加藤景道・荒川太郎を向ける 日本外史 厨川落城後に ②鶴脛・比與鳥へ、加藤景道・荒川太郎を向ける
「前九年後三年日本外史衍義」は国会図書館所蔵、明治19年神田民衛著作である。 133頁 まず比與鳥の城へ加藤可景道平太夫國妙兩将を向けたまう。この柵の主将は貞任の弟比與鳥七郎 総勢2800人の官軍が攻め来ると聞くよりも 今はすでに鳥海、厨川も陥りたりと聞く上は、とても逃れられない・・・
越後城下町 高田 徒然 「3-春日山」 まさにこの絵画のてっぺんにふさわしいと思われる春日山を描きました。 3月11日AM10時よりPM2時53分に出来上がりました。 空にまつわるアウトラインを描き、そして空を、松の群生を、右の大きな木を、左の木々を、そして山肌を描き出来上がりました。 写真取材では山肌の様子がはっきりしていなく、描き切るのが難解でした。 この絵画で、すぐに春日山を連想していただけたなら嬉しい限りです。 越後の龍とあがめられ、第一義をかざして上杉謙信公は、この山城で采配を振るわれておられたのでしょうね。 「夏草や兵どもが夢のあと」 このような俳句がありましたね。 「春日山城跡」…
福田和也の「読書脳」を読んでいたら、いろいろな書物を紹介している中で、「ナポレオン言行録」の項があり、その中で江戸時代から日本人がナポレオンを知っていた、という話になって、この本が紹介されていました。 江戸のナポレオン伝説: 西洋英雄伝はどう読まれたか (中公新書 1495) 作者:岩下 哲典 中央公論新社 Amazon この本で、日本で一番に近い早さでナポレオンを知って、いち早く漢詩にして世間に広めたのは頼山陽だということを知りました。 頼山陽は、「日本外史」で名高い漢詩人ですが、ナポレオンを紹介した漢詩があることは今まで知りませんでした(私が持っている旧版の「頼山陽詩鈔」にも入ってないし。…
日本外史 徳川氏正記 頼山陽 著 木村岳雄 訳・解説 『日本外史』は、源平から徳川までの武家の興亡を、司馬遷の『史記』の紀伝体に倣って記述した歴史書です。本書は『日本外史』全二十二巻のうち、巻之十八から巻之二十二までに相当する「徳川氏正記」を扱っています。徳川氏の出自からその死後まで、家康の生涯を格調高い名文(書き下し文)に丁寧な解説・現代語訳を付しています。 頼山陽は江戸時代後期の漢学者にして詩人。二十一歳で安芸国(広島県)を出奔、自宅幽閉赦免ののち、京都で開塾。詩、書に才能を発揮しました。山陽二十三歳の時に初稿として書き上げられた『日本外史』は、その後二十三年をかけ推敲されて完成。死後評判…
昭和55年7月2日1版1刷 昭和59年2月23日1版11刷 ①小学校にはいって本名知る ②二円六十銭持って大阪へ ③易者が出世のたいこ判 ④人生コースの扉 ⑤七円もうけてこわくなる ⑥中古エンジンブローカー ⑦大戦ブームで大もうけ ⑧“村一番の成功者” ⑨「ヤンマー」設立 ⑩事故頻発、差し押え、労働争議 ⑪マン社のディーゼルエンジンから ⑫世界最初の五馬力級誕生! ⑬最大のピンチを救われて ⑭憲兵護衛で銀行へ預金 ⑮藍綬褒章受章まで ⑯墓もないディーゼル博士のために ⑰大十字功労勲章をうく ⑱妻とともに行く“栄光の花道” ・明治21年3月22日、滋賀県の農家の4男として生まれた。両親から「直吉…
偶然にも職場で年末年始の日当直当番に当たらなかったものだから、年末は人生初の透析バイトに手を出しつつも、穏やかな年明けを期待していた。結果としては、まったく穏やかでない形で2024年がはじまってしまった。というのも、1月6日~8日の連休あたりから風邪をひいてしまい、声がほとんど出なくなってしまう災難に見舞われた。 ただの風邪なので、実際のところは災難というほどのものでもないのだけれど、普段からスケジュールを過密にしていてまったく休めない仕事の仕方をしていたわけで、その間も内科外来やら救急外来やらの業務を継続せざるをえなかったわけだ。やがては副鼻腔炎を起こし、黒い鼻血が止まらなくなり、後鼻漏で喉…
★★★★☆ あらすじ 新聞に書いたある記事が原因で政府から圧力をかけられ、論説委員から外されそうになった女性は、あらゆるコネクションを使って真相を探り、それを阻止しようとする。 感想 政府に圧力をかけられ、異動させられそうになった新聞社の女性社員が主人公だ。どうやら背後に宗教団体の働きかけがあるらしいとか、政府がマスコミに圧力をかけるとか、まるで今の政治を見ているかのようだ。きっとこの時代から政治は何も変わっておらず、それどころかむしろ酷くなっているのかもしれない。悪い意味で感慨に耽ってしまう。圧力に簡単に屈してしまう新聞社も同様だ。 自民党の統一教会汚染 追跡3000日 作者:鈴木エイト 小…
[0301]円山応挙を中心とする画派を【 】という。(2013)[0302]京の三閣の一つとされる飛雲閣がある西本願寺の庭園を【 】という。(2011)[0303]大原の天台声明の道場に始まる【 】は、融通念仏の宗祖良忍により再興され、薬師・釈迦・阿弥陀の三尊を本尊としている。(2009)[0304]2月23日に醍醐寺の金堂で行われる行事で、金堂前では大鏡餅を抱え上げる時間を競う奉納餅上げ大会が行われるのは【 】である。(2008)[0305]松尾芭蕉の弟子で、「柿ぬしや 梢はちかき あらし山」の句を詠んだ【①】は、嵯峨野に【②】を建てて晩年を過ごした。(2005)(2021)[0306]主に…
[0101]妙満寺・清水寺・北野天満宮の各成就院(成就坊)にあった「雪月花の三庭苑」を作庭したのは【 】である。※2022年に「花の庭」が復活/「月の庭」は現在も「成就院」にあると言える。(2014)(2022))[0102]琵琶湖疎水を建設した目的は【 】である。(2007)[0103]落語『景清』では、失明した目貫師(彫金師)が【 】に日参したが失敗し、清水寺に日参したところ、平家方の豪傑だった悪七兵景清の目を与えられるという筋書きである。(2021)[0104]梶井基次郎の小説のうち、「私」が爆弾に見立てたものを京都の書店に置く描写があるのは【 】である。(2016)[0105]「鳥羽伏…
塩の日 「塩の日」は、1569(永禄11)年、越後の名将「上杉謙信」が交戦中の武田信玄の領民に塩を送った日にちなんで定められました。 「雑学ネタ帳」より引用します。 1569年(永禄11年)、武田信玄と交戦中の上杉謙信が、武田方の領民が今川氏によって塩を絶たれていることを知り、この日、越後の塩を送ったとされている。 この話が「敵に塩を送る」という言葉の元となり、争っている相手が苦しんでいるときに、争いの本質ではない分野については敵の弱みにつけこまず、逆に援助を与え、その苦境から救う例えとなっている。 「Wikipedia」より引用します。 「敵に塩を送る」 敵に塩を送るとは、日本の中世故事にも…