1305年〜1367年8月9日 日本の南北朝時代の武将、父は斯波宗氏(家貞)で母は大江時秀の娘。 足利氏の有力一門である斯波氏(尾張足利氏)4代当主で、北朝軍の有力武将となり北陸方面の指揮官として活躍。南朝軍の新田義貞を討つ功績を上げた。やがて。観応の擾乱が起こると足利直義陣営に属して足利尊氏と戦うが、この間に尊氏、直義両陣営の間で離反と帰参を繰り返した。尊氏の死後、一時は室町幕府の最高権力を得たがまもなく失脚した。
南北朝時代の出来事を年表にまとめた。 南北朝時代 は 日本の歴史の時代区分の一つである。 前は 鎌倉時代 後は 室町時代 広義の室町時代に含まれる。 南北朝時代の概要 南北朝時代の文化 南北朝の段階区分 南北朝時代の出来事 前史 1318年 (文保2年) 96代 後醍醐天皇 即位 1331年 (元弘 元年) 元弘の乱 1331年 (元弘 元年) 北朝 初代 光厳天皇 即位 1333年 (元弘3年) 後醍醐天皇 重祚 1333年 (元弘3年) 建武の新政 1334年 (建武元年) 二条河原落書 1335年(建武2年)中先代の乱 1336年(建武2年) 建武の乱 1336年 (建武3年) 建武式目…
1995年12月7日初版発行 道誉は義詮がいる鎌倉に向かった。戦はまだ続いており、後醍醐帝の崩御後、吉野では次の帝を立てた。直義の鎌倉での政事は北条高時が執権だったころと似ていた。直義は公平で峻烈でさえあったが、北条の幕府の機構を超えてはいなかった。師直は幕府軍の育成に腐心していた。道誉は出雲守護職に補された。道誉は観修寺経顕と良好な関係を築き、他の公家との折衝もうまく進めた。幕府は直義派と師直派の二つに割れていた。尊氏は直義と師直を競わせた。戦雲の気配が河内辺り中心に漂った。直義と師直の力関係が逆転した。師直は楠木の遺児との戦いに勝利し、吉野を落とすため、全山に火をかけ、焼き尽くした。大覚寺…
数ある日本の名刀の中でも特別な存在とされる「天下五剣」。「童子切安綱」「三日月宗近」「大典太光世」「数珠丸恒次」とともに、その一振に数えられるのが、わが北条家相伝の「鬼丸」(鬼丸国綱)じゃ。今回は、歴代天下人も畏怖したという妖刀「鬼丸」について紹介するぞ。 鬼丸国綱
今回は斯波家長について。松井優征さんの「逃げ上手の若君」にも登場してくる足利一門におけるエリート中のエリートについてじゃよ。 斯波孫二郎家長(松井優征「逃げ上手の若君」)
序文・驕れる者は久しからず 堀口尚次 斯波高経(しばたかつね)は、南北朝時代の武将、守護大名。越前・若狭・越中守護。足利氏の有力一門・斯波氏〈足利尾張守家〉4代当主。なお、高経自身はその存命中に斯波姓を自称したことも他称されたことも無く、足利氏の別家〈足利尾張守家〉当主として終生足利の名字で呼称されたため、現在も足利高経と呼ばれることも多い。 斯波氏は足利本家4代当主の泰氏の長男・家氏から始まる名門で、成立当初より「足利」の名字を公称し、家氏以降の代々の当主が尾張守を称したため足利尾張守家〈足利尾張家〉と号するなど、他の足利一門とは一線を画す高い家格を有した。このため「足利家の庶家〈庶流〉」と…
【 畑時能供養祠 】 所在地: 児玉郡上里町金久保701 「陽雲寺」境内 新田義貞四天王のひとりで、金窪城主・畑六郎左衛門時能は新田義貞に従い南朝方と して各地を転戦。 建武5年(1338)、新田義貞が藤島の戦いで戦死した後も、南朝方の将として義 貞の弟・脇屋義助に従い北朝方の斯波高経の軍勢と各地で交戦するも、暦応4年(13 41)、越前国伊知地(現在の福井県勝山市伊知地)で討死した。一説では暦応2年 (1339)ともされる。 従臣・児玉五郎左衛門光信はその首級を携えて敵陣を突破し、故地であるこの地に葬 られ供養されたという。 後に光信も主君・時能の供養祠傍に葬られ石祠が建立されたことから、「…
福井城本丸瓦御門付近の石垣と内堀 福井城の前身である北ノ庄城は、北朝方であった斯波高経が建武5年(1338)に構えた足羽七城のひとつであったとも、室町時代の朝倉家当主である教景の弟頼景が築城した城ともいわれ、戦国時代には本拠一乗谷城の北の支城であった。当時は朝倉土佐守館と呼ばれる居館的な城で、それほど大きな城ではなかったと思われる。 天正3年(1575)に一向一揆を討伐して越前へ入部した柴田勝家は、城下町の発展を考え、一乗谷城ではなく平野部の北ノ庄城を改修拡張したが、朝倉時代の北ノ庄城を拡張したのか、それとも同じ場所、あるいは別の場所に築き直したものなのかは、残念ながらはっきりしない。いずれに…
本日は日本が誇る伝統工芸であろう「刀」と、逸話を紹介していければと思っています。よろしくお願いします。 天下五剣 童子切 鬼丸 三日月 大典太 数珠丸 骨喰藤四郎 にっかり青江 雷切 猫丸 破邪の御太刀 天下五剣 日本の歴史上では数多くの名刀が生まれました。その中でも史上最高の名高い5振り名刀を指す。 童子切 童子切安綱とも呼ばれる。平安時代の刀工である安綱による一振り。元々は「血吸い」と呼ばれる刀だった。源頼家が酒呑童子の首を切り落としたことから、「童子切」と呼ばれるようになった。江戸時代には、試し斬りで6人の罪人の遺体を一度に切断することができたと、その桁外れの切断力は証明されている。室町…
杣山城本丸と城址碑 北陸道を睨む杣山にあった城で、豪族瓜生氏の居城だが、伝承では大和源氏の祖となった源頼親が平安時代中期に築いたともいわれる。 もともとは、瓜生氏入部以前の杣山一帯には3千もの寺坊があり、地名も飽和庄と呼ばれていたようだが、後に越後国三島郡瓜生郷から瓜生衡が地頭となって入部した際、杣山庄と改められたという。 瓜生氏は、酒呑童子の退治で有名な源頼光配下の四天王のひとりである渡辺綱の裔で、一字名からわかるように嵯峨源氏である。衡の4代前の定が越後に移り、その孫で衡の祖父である種が、前述の三島郡瓜生郷の地頭職として住し、地名を名字としたが、承久3年(1221)の承久の乱で宮方について…
黒丸町の集落の中に建つ城址碑 詳細は不明だが、斯波高経が建武4年(1337)頃に構築した城で、連携して防衛する足羽七城のひとつに数えられる。読み方には諸説あるようだが、城のある黒丸町の読みがクロマルであり、越前朝倉氏創業の黒丸城と区別する為に大小を付けたと思われることから、当時の一般的な読みを考え、コクロマルと呼ぶのが正しいのではないだろうか。 斯波氏は、家祖が足利家の庶長子であったことから、足利一門の中でも特に家格の高い家で、当初は宗家と同じく足利姓を名乗り、一説には、室町時代に入るまで一門ではなく別家扱いであったといもいわれる。 鎌倉時代末期の当主は、この城を築城した高経で、尊氏の挙兵に従…
越前一向一揆討伐後、信長の命で家臣の柴田勝家が越前支配の拠点として築いた城。 北ノ庄城の前身としては、越前朝倉氏の庶流が拠点としていた同名の城があった。また、さらに遡った南北朝時代の建武5年(1338)に、斯波高経が南朝方に対抗して足羽七城という城塞網を構築しているのだが、それに北ノ庄城を入れる説もある。後者の説に従えば、南北朝時代には存在したということになるだろうか。 朝倉氏の初代広景は、越前守護斯波高経に従って越前に入部し、この北ノ庄城の脇を流れる足羽川の下流、足羽川が日野川と合わさり、さらに九頭竜川と合流した先の、北ノ庄と三国湊の中間辺りの黒丸城を得て拠点としたが、広景が北庄神明神社の社…
金ヶ崎城跡周辺の案内図 敦賀湾に突き出た半島の小山に位置する、三方を海に囲まれた海城の山城。読みは、城跡を境内地とする金ヶ崎宮がカネガサキと呼ばれていることから、カネガサキが正しいのだろう。 築城時期は古く、源平合戦の頃に平通盛が木曽義仲に備えて築いた都留賀城が金ヶ崎城だといわれることから、これに従えば、養和元年(1181)から寿永2年(1183)にかけての築城だろうか。 その後は、気比神宮の大宮司気比氏の城となっていたようで、南北朝時代には、延元元年(1336)に尊氏が九州から東上して入京した際、新田義貞が後醍醐天皇の命を受けて尊良親王と恒良親王を奉じて北陸に下り、気比氏の当主氏治がこれを城…
大黒丸城説明板 越前での朝倉氏の最初の本拠で、三宅黒丸城ともいう。読み方が色々あるようだが、城跡近くの黒丸城町の読みがクロマルであり、斯波高経ゆかりの黒丸城と区別するために大小を付けたと思われることから、当時の一般的な読みを考え、オオクロマルと呼ぶのが正しいのではないだろうか。 朝倉氏の本姓は日下部である。日下部氏は、但馬の大族であり、その中の一流が但馬国養父郡朝倉に住し、地名を名字としたのが朝倉氏の始まりという。 日下部氏は、開化天皇の裔とも孝徳天皇の裔ともいわれ、但馬国造の系譜も汲んでいるが、古代の系譜には不鮮明な点が多く、実際は古代の霧の中といった所だろうか。始祖としては、日下部表米が挙…