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文化大革命

(社会)
ぶんかだいかくめい

1965年に毛沢東が自らの復権などを目的に始め、以後約10年間続いた権力闘争。


修正主義・市場解放勢力の反動に対する修正運動となっているが、実体は、大躍進政策の大失敗により2000万以上(2000万〜4300万と言われる)の餓死者を出し、国家主席を辞任せざるを得なかった毛沢東が、権力回復の為に起こした政治闘争である。
 この間、中国は混乱と混迷を極め、内戦状態の様相を呈した。地方でも多くの人間が反動分子として処刑され、その犠牲者は最も控えめな説でも2000万人といわれているが、実際の数ははっきりしない。大躍進政策での失敗による犠牲者も含むと、総計7000万人に達するという推計もある。

「革命」の内実

 紅衛兵と呼ばれる毛沢東の私兵が思想統制、拷問、つるし上げ、暴行、恐喝、財産没収、糾弾、時には殺人などを行い、徹底的な毛沢東への個人崇拝を強制していった。
 階級闘争が叫ばれ、人々は出身階級ごとに色分けされ、出身階級が良いもの(紅五類)が悪いもの(黒五類)を一方的に迫害し、弾圧するということが正当化された。*1

・紅五類  労働者・中農以下の農民・兵士・革命幹部・革命烈士
・黒五類  旧地主・旧富豪・反動分子・悪質分子・右派分子

◆たとえ親が共産党の幹部でも安心はできなかった。三代前まで遡って査定され、祖父が小さな商店を経営していたために「資本家」のレッテルを貼られ(当時の中国ではそれは死刑判決にも等しかった)、大学進学を諦めなければならない人もいた。

◆学校においては、教師がつるし上げの対象となり、生徒が校長を追放し、授業は行われず、労働が奨励されたため、この時期に学生をしていたものは高等教育を受ける機会を奪われた者が多い。授業の内容はもっぱら毛沢東の著作の研究に終始し、そして出身階級が悪い生徒をつるし上げ、殴打し、悪罵を投げつけるという凄惨な場であったという。

◆ある女性が集団でリンチを加えられているので、殴打されている理由を尋ねると、「この女は地主の娘だからだ」という答えが帰ってきた。

◆紅衛兵は宗教、伝統のある物、古い物を敵視した。造反有理(反逆することに理がある)という毛沢東のスローガンの下、既成概念、既成の政治権力、既成の秩序を徹底的に破壊しようとしたのである。

◆仏教寺院やキリスト教の教会は破壊され、凄まじい数の仏像と経典、文化的価値のある建築物が灰燼に帰した。僧侶やシスターたちは侮辱をうけ、暴行され、時には殺された。文革の後半になると、批林批孔運動の名の下に、儒教と孔子も徹底的に攻撃された。

◆紅衛兵はとにかく古い物を敵視した。中国各地の博物館や美術館、遺跡には紅衛兵が殺到し、重要な文化財を次々に破壊していった。博物館の学芸員たちは、文化財に毛沢東語録の一節を紙に書いて貼り付けることで、多くの美術品や文化材を守ったという。

◆ある男は道を歩いているといきなり紅衛兵に殴打された。男が身に着けていた毛沢東バッジを見咎められ、「出身階級が悪い貴様に毛首席のバッジをつける資格はない」と言われたのである。その男は「私は毛首席を愛する権利がある。」と反論し、次の日から毛沢東に対する忠誠を表すために裸の皮膚にバッジを刺して着けたという。

◆弁護士、医師、学者など、あらゆる知識人や文化人が修正主義者、あるいは走資派として批難と弾圧の対象となった。

◆スーツやイタリア製の靴を着用しただけで「西洋かぶれ」として紅衛兵に詰問され、没収された。

◆ある老夫婦は、地主をしていたというだけの理由で家宅を紅衛兵に捜索され、家財を没収された。老夫婦が紅衛兵にお茶を出してもてなそうとすると、「お茶には毒が入っている!」と決め付けられ、息も絶え絶えになるほど殴打された。

◆この頃の中国では、金目の物をもっていることはそれだけで弾圧の対象となる恐れがあったため、夜中になると高価な美術品や家財を川に投げ込む音が聞えてきたという。

◆文化大革命は中国人の家庭にも深刻な傷を残した。批難する対象を血眼で探し、見つけられなければ実の親子同士で告発をしあった。夫婦、兄弟、親友、全ての人間が信じられなくなり、人間不信で自殺する人がひきもきらない状態であったという。

◆文革時、中国人はありとあらゆる場で派閥を作り、抗争に明け暮れた。家庭、職場、学校、隣近所で、派閥が違えば争いの種になった。傍観者でいることは許されず、どちらかの対立軸に属さなければ迫害を受けた。当初は棍棒や投石が主たる武器であった派閥抗争は、やがて銃器まで使用されるまでになり、中国全土で内戦状態とも見紛う惨状を呈したという。*2

◆中国で理系の超名門とされる清華大学では、二つの派閥に分かれた大学生同士で日常的に殺人が横行していた。清華大学の科学教室棟にたてこもった派閥は、食料が尽きたためにトンネルを掘削して脱出しようと試みたものの、敵対派閥の学生達が地震計でトンネル工事を発見し、坑道に爆薬を仕掛けて爆破したため、多数の死傷者を出した。消防車がすぐにかけつけたものの、銃で武装した学生たちに阻まれ、消火活動は難航したという。

◆劉少奇(中華人民共和国第二代国家主席)や訒小平は党の機関紙である人民日報などで、走資派として名指しで批判され、凄惨な迫害を受けることとなった。劉少奇を初めに糾弾しはじめたのは清華大学の学生たちであったが、北京大学の学生達はそれを見て「先を越された!我々は勝g小平を血祭りにあげるぞ!」と言ったという。

 劉少奇は国家主席であったにもかかわらず人民裁判でつるし上げを受け、監禁されて、警備員や担当の医師からも暴行を受けた。共産党を永久追放され、除名されたが、そのニュースを強制的にラジオで聴かされたという。入浴や散髪を禁じられ、持病の薬も取り上げられた彼は、最後には寝たきり状態となり、糞尿の処理もされぬままに放置され、1969年非業の死を遂げた。1980年に名誉回復。

◆職場が派閥抗争の場となることが多かった為、生産活動は止まり、工場は廃墟と化した。また、文革の最中はアルバニア、ポル・ポト政権下のカンボジアなど、ごく一部の例外を除いて国交が断絶。さながら鎖国状態となった為、中国の近代化は30年遅れたと言われている。


この混乱は、1976年に毛沢東が死去すると、四人組が毛沢東をそそのかした主犯と言う形で逮捕、1981年に実刑を下され、混乱は収拾された*3

このとき、償・ャ平も反動分子として投獄され、危うく殺されるところであった。

地方では、文革の被害者を食人していたと言う証言がある。
「食人宴席―抹殺された中国現代史」 ISBN:4334005438

日本への影響

 文革当時の日本では、マスコミ、学識経験者、大学生、文化人の大半が左翼的な思想を有しており、マスコミは中国当局の発表を鵜呑みにしてそのまま報道したため、文化大革命を人類の歴史に燦然と輝く金字塔であるかの如く賛美する風潮があった。特に朝日新聞はこの時代の文化大革命を礼賛する報道に終始し、誤報を連発したため(もっとも、誤報であることが確認されたのは文革の終了を待たねばならなかったが)、後に大変な非難の対象となった。
 文化大革命とそれに対する評価は、日本国内の左翼勢力の中に深刻な分裂と軋轢を生み、日本人の大半が共産主義に失望し、学生運動が衰退し、左翼思想からの離別が加速する遠因ともなったといえよう。 

*1:因みに毛沢東は富農の子であったため、この定義に従うと出身階級は最悪である。

*2:人民解放軍の軍需工場が存在した陝西省西安や、内陸部の重慶では、自動小銃、高射砲、機関砲、戦車といった純然たる武器まで使用された。西安では二つの大企業がそれぞれ派閥に分かれて連合し、総計五万人が内戦に参加。重慶では、敵対派閥が川の対岸から重慶大学に向けて迫撃砲を夜間に何百発も打ち込む体たらくであった。当時その場にいた者の証言によると、戦闘の後、敵対派閥に対する怒りを煽る為に、犠牲者の遺体を体育館で展示することまでされた。夏であったのですぐに遺体の腐敗が始まり、蛆虫と悪臭で凄惨を極めたという。

*3:四人組は後に減刑された。江青・王洪文は無期懲役、張春橋は懲役18年、姚文元は懲役20年

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