江戸幕府,第2代将軍 徳川家康の三男。
兄の松平信康・結城秀康や弟の忠吉と比べ戦下手であったと伝えられ、関が原の戦いでは30000の軍勢を引き連れながら、真田氏が篭る兵力2000の上田城を攻略できず、本戦に参加できず、大阪の陣では早く戦場に着くことに執心し、強行軍で兵を移動させたため、兵がことごとく疲弊し、家康に叱責されている。
徳川家康が1616年に亡くなり、2代将軍の徳川秀忠が幕府の実権を握りました。 The 2nd Shogun, Hidetada Tokugawa had the actual power of Bakufu after Ieyasu Tokugawa died in 1616. 徳川秀忠は全国の大名に幕府がそれぞれの藩に領地をどのくらい再分配したかが示された領知宛行状を出し、将軍(幕府)と大名(藩)が主従関係にあることを明確にしました。 To articulate the master-servant relationship between Shogun (Bakufu) and all t…
「神の君へ」から来年の「光る君へ」 もう片手で数えれば2024年が来る。年末だ。毎度のようにああだこうだに追われて年の瀬を迎えているが、気づけばまだ「どう家」最終回について書いていなかった。下手すると来年の大河「光る君へ」が始まってしまうじゃないか。 NHK大河ドラマ「どうする家康」第48回(最終回)「神の君へ」は、もう10日以上前の12/17に放送された。この記事を12/29の総集編前に書き始められて良かった(アップできるのは後かもわからないけど😅)。 最終回サブタイトルの「神の君へ」は明らかに来年大河の「光る君へ」を意識したものだろう。Amazonで発売されていた脚本をチラ見したら、最終回…
砲撃にさらされ過呼吸の千姫。秀忠も泣く NHK大河ドラマ「どうする家康」は大詰めの第46回「大坂の陣」を12/3に放送した。あらすじを公式サイトから引用する。 豊臣家復活を願う方広寺の鐘に、家康(松本潤)を呪う言葉が刻まれたという。家康は茶々(北川景子)が徳川に従い、人質として江戸に来ることを要求。激怒した大野治長(玉山鉄二)は、両家の仲介役・片桐且元(川島潤哉)の暗殺を計画。家康はついに14年ぶりの大戦に踏み切る。全国大名に呼びかけ、30万の大軍で大坂城を包囲、三浦按針(村雨辰剛)に用意させたイギリス製大筒を配備。そんな徳川の前に真田丸が立ちはだかる。(これまでのあらすじ | 大河ドラマ「ど…
関西で、京都に寄ったので、オーバーツーリズムを避け、 二条城から大徳寺と、紅葉狩り。 信長から、秀吉、家康、石田三成に、小早川、畠山、大友など 戦国有名大名に、ゆかりのある名所旧跡です。 ◯大河ドラマの示したもの で、もう12月、大河ドラマも、残すところ、大阪の陣、あと3回。 今の大河ドラマも、織田、豊臣より徳川、 主人公だからあたりまえですが、、 二代目も、優秀な秀頼より、臆病な秀忠がよい、 秀吉より家康、の路線できています。 覇権より王道、武力より平和、ヒーローより弱者が優先、 このあたり、どうも偏向しすぎているように思います。 弱者としての女性から、弱者としての男性に、 スポットが当たっ…
戦国ヒストリーという日本の歴史に関するサイトへの投稿を続けています。専門家、歴史愛好家ら多士済々の執筆者にまじって、歴史ファンの一人として、ユーザー投稿の形で執筆しているところです。 「戦国ヒストリー」は、丁寧に歴史を追求した本格派の戦国WEBマガジンといううたい文句で、戦国時代を中心に源平時代から近現代史まで、時代もジャンルもバラエティに富んだサイトです。 sengoku-his.com 今回の掲載コラムご紹介は「徳川秀忠の隠し子だった保科正之を救った育ての父と母」です。 大河ドラマ「どうする家康」にも登場した徳川2代将軍の秀忠。正室の江は、姉さん女房でたいへんな悋気持ちだったと言われていま…
サブタイトルは「二人のプリンス」でも NHK大河ドラマ「どうする家康」第45回「二人のプリンス」が11/26に放送された。いやあ、11月もこれで終わり、残るは12月の3回分だけ。視聴者側のこちらの気持ちも急いてくる気がする。まずはあらすじを公式サイトから引用する。 関ケ原で敗れ、牢人となった武士が豊臣の下に集結していた。憂慮した家康(松本潤)は、秀頼(作間龍斗)を二条城に呼び、豊臣が徳川に従うことを認めさせようとする。しかし、初めて世間に姿を見せた秀頼の麗しさに人々は熱狂。脅威を感じた家康は、秀忠(森崎ウィン)の世に憂いを残さぬためにも、自らの手で豊臣との問題を解決しようとする。そんな中、豊臣…
次週は早くも真田丸戦。関ヶ原からの駆け足感。それでも秀頼と秀忠を比較し、次世代を見据えた戦いであることを掘り下げていた。 秀頼と秀忠の能力的なことは別にしても、残された文献から性格を読み取ることはなかなか難しいだろう。実際頼りない秀頼だったり、勇猛な秀忠だったりする設定のドラマや小説はある。しかし今回秀忠が凡人設定で気弱なことに意味を見出しているところはとても面白い。家康もかつては弱腰の主人公だった。天下を治めるには力ではなく民意を尊重した道徳政治こそが王道。武力の統治は己の1代で終わらせる家康の決意が大坂の陣といえる。 戦国末期に生まれ片や関白、片や将軍の2代目という運命。手を取り合える術は…
母に欺かれていた家康 NHK大河ドラマ「どうする家康」は第44回「徳川幕府誕生」が特別なオープニングと共に11/19に放送された。今回だけのスペシャルバージョンだそうな。今回は1600年の関ケ原の戦いが終わってのひととき、というよりも1611年に手が届く10年もの期間がブワーッと一気に巻き気味に描かれ、家康の母・於大、股肱の臣の平平コンビ(本多忠勝、榊原康政)、そしてドラマでは出てこなかったが家康の息子らが死んでいった。 この間、大坂方の豊臣秀頼が確実に成長していく。一方、家康は天下を返さぬための手を打っていった。 あらすじを公式サイトから引用する。 家康(松本潤)は大坂城で、関ヶ原の戦勝報告…
NHK大河ドラマの主人公徳川家康には2人の正室がいました。 築山殿とあさひ姫。 そして正室以外に多くの側室がいました。 「どうする家康」に登場しているのは西郡局(にしこおりのつぼね)、お万の方、お愛の方、阿茶局です。 子連れの未亡人が圧倒的に多かったそうです。 熟女好きというよりは、「子供を産んだ経験のある女性ならば、跡継ぎが生まれやすい」と考えたのかもしれません。 家康には11人の息子がいましたが、後継者となったのは三男の徳川秀忠でした。長男の信康は切腹しており、二男の秀康は母の身分が低く城外で育てられたからです。 家康と違い、秀忠は1人の側室も持ちませんでした。 いわゆる「恐妻家」だったの…
1579年に長丸(秀忠)が生まれると、1580年に秀忠の産土神(うぶすながみ)として浜松城内にあった五社神社が、現在、五社・諏訪神社のある場所に移されました。そのすぐ北側に西郷局が開いたのが先照山心造寺(しんぞうじ)です。 西郷局が奉納した鉄灯篭が2つあったとされますが、戦災で片方が失われ、今は1つだけ残されているということです。遠江49薬師の22番札所で、目の治療に利益があるとされています。 すぐ南側には、五社神社・諏訪神社があります。 賀茂真淵の句碑 大空のはてなく広し霜の朝 五社神社・諏訪神社 ランキング参加中日本史 ランキング参加中日本の歴史 ランキング参加中徳川家康 ランキング参加中…
新装版 捨て童子・松平忠輝(下)【電子書籍】[ 隆慶一郎 ]価格: 825 円楽天で詳細を見る 【あらすじ】 江戸に戻った松平忠耀と知遇を得たイエズス会修道士のソテーロは、教義を普及するために忠輝を利用しようと考える。キリスト教については理解させるに止め、まずはヨーロッパの先端科学を教えた。忠輝は特に医学について興味を持ち、ラテン語を習得して知識を吸収する能力にソテー口は驚く。街中で身分を隠し、貧困の民たちに最先端の治療を施す忠輝を見て、塊偶たちは忠輝を守ろうとし、二代将軍徳川秀忠と柳生軍団は、再度命を奪おうとする。 そんな姿を見て、家康は忠輝を早くに見放し、猜疑心の強い秀志を後継に選んだこと…
新装版 捨て童子・松平忠輝(上)【電子書籍】[ 隆慶一郎 ]価格: 825 円楽天で詳細を見る 【あらすじ】 鋳物師(いもじ) の娘で美貌のお茶阿は、夫が代官に殺され、主君の徳川家康に訴える。家康は下女として雇うが次第に男女の仲となり、家康の第6子として忠輝を生むことに。忠輝は色黒でまなじりが割ける魁夷な容貌で、家康は「捨てよ」と命じる。見かねた家臣の皆川広照が養父として預かり、周囲の子とは違う容貌から「鬼っ子」言われるが、お茶阿はそんな忠輝を可愛がって育てた。 母お茶阿は傀儡(くぐつ)と源とし、「道々の輩」と称される漂泊の民たちの血を受けている。傀儡は全国を巡っては様々な分野で特異の才能を発…
戊辰戦争の舞台になった会津若松城。2019年に登城しましたが、天気が今一つだったのが心残りでした。「晴れた空をバックに天守を撮りたい!」という野望を持って、再訪しました。 日本100名城 2023年5月再登城 満足度:★★★★★ 前回の訪問記はこちらです。 保科・松平家について 会津藩は幕末の戊辰戦争で悲劇的な敗北を迎えました。なぜ会津松平家は最後まで徳川家に忠節を尽くしたのでしょうか? 会津藩の初代藩主は保科正之といい、2代将軍・徳川秀忠の隠し子でした。しかし、秀忠からは認知されず、信州高遠藩主・保科家に養子として迎えられます。 正之の運命を変えたのは、異母兄である3代将軍・徳川家光でした。…
腐儒論は侗庵36才の時の論文です。腐儒とは役立たずの儒者といった意味で、侗庵の論文には盛んにでてきます。それだけ海外の情勢に無関心で現在の重要問題を考えようとしない儒者に我慢ならなかったということでしょう。本論文では儒者だけでなく兵学者や役人もやり玉に挙げています。特に役人の御役所仕事ぶりを厳しく非難しています。 原本は西尾市岩瀬文庫所蔵のものです。これを6つに分けて見ていくことにします。 (1)腐儒とは (2)腐儒の歴史 (3)歴史上の様々な腐 (4)役人と兵学者の腐 (5)清と西洋諸国 侵略に務め腐に陥らず (6)腐を避ける方法 (1)腐儒とは (漢文) 腐儒之目俗吏武夫詬厲吾儒之言也、使…
大和古文書読ままい会に参加。 江戸での裁判も大詰めを迎えた。これを記録した人は当事者同士ではなく引き合いの人(証人)で、8月から裁判のために江戸に居て、10月になって刈入れ時なので、庄屋と組頭がいないのでは村が困ると、一人だけ帰ることを文書でお願いして許された。江戸幕府はとにかく文書主義。それにしても奉行が言ったことなどをちゃんと記録をしている所が素晴らしい。どうやって記録したんだろうと気になってくる。 「岐阜県中世城館跡総合調査報告書第二集」を借りた。 2003年に編集されたもの。とても面白かった。 山城は攻められた時の避難所だと考えられていたが、発掘の結果、室町期から戦国期にかけては城主は…
淡々と正確に事実を積み重ねる記述が、「すがすがしさ」さえ感じられる。 「江(ごう)」は「浅井(あざい)三姉妹」の末娘。 徳川秀忠の妻としても知られている。 その「江」について、丹念に資料を使って紹介した書物。 全体的には、当初の予測(退屈で、読むのが苦痛)を覆し、刺激的で興味深く感じた。 ただし、随所に「攻撃的な」記載があり、 攻撃性を備えた言動をする人なのだろうと勝手に想像する。 一般向けの著書で、そこまでする必要があるのだろうか。 何の意図があってそんなことを書くのか。 矜持が無ければ、こういう優れた仕事ができないという訳なのか。 たぶん、それは表裏一体なのだろう。(面白さと攻撃性が) 穏…
徳川家康は、大名が領国内に持てる城を一つまでとする一国一城令を施行しました。 Ieyasu Tokugawa enforced the ordinance which tells each and every feudal lord not to have more than one castle in one’s domain. また、全国の大名を統制するため、新たに武家諸法度を制定して徳川秀忠に施行させました。 Also, to put all the feudal lords in Japan under control, he established the new code of S…
今日はこのシリーズの続き。 hiroringo.hatenablog.com 『昭和天皇の研究_その実像を探る』を読んで学んだことをメモにする。 昭和天皇の研究 その実像を探る (祥伝社新書) 作者:山本 七平 祥伝社 Amazon 10 第6章を読む_後半 前回は、杉浦博士による「外国の皇帝の紹介」と「創業と守成」についてみてきた。 今回は、昭和天皇を「守成の君主」にするために杉浦博士が行った教育の内容についてみていく。 この点、『倫理御進講草案』の表題には、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康は登場しない。 しかし、徳川家光が登場する。 というのは、徳川家光も昭和天皇も三代目であり、杉浦博士は徳川…
江戸の侍・村尾嘉陵(1760-1841)の江戸近郊日帰り旅のルートを辿るシリーズ。今回は江戸南郊の桜を見て歩いた記録である。当然、僕も桜の季節に歩くべきであったが、この日の記録を読むと、江戸からあちこちに立ち寄りながら池上本門寺まで歩いていて(もちろん徒歩で往復)、その距離の長さから二の足を踏んでいたのだ。それで代わりにずっと距離の短い文京区小日向の道栄寺から新宿区北新宿(旧柏木村)の円照寺まで花を見ながら歩いた道筋を前回辿ったわけだ。それでも「南郊看花記」は面白くて、やはり歩いてみたい。もう桜はわずかに八重桜が残るだけで、ハナミズキやツツジと新緑の季節だが、とりあえず頑張ってみることにした。…
家と個人 家制度 - Wikipedia 「家」制度なくなったのに… 嫁、主人、家父長制 結婚後の現実:朝日新聞デジタル 家父長制 - Wikipedia はじめに 明治時代に作られた帝国憲法は民法で定めた家制度の上に成り立っていました。戦後、1947年に廃止されてから75年以上が経過しましたが、まだ捨てきれていない人も多く、この立場で話をする人もいます。そこで、「家」の歴史とその形成過程を調査してみることにしましょう。 歴史 「家」は1族として一塊の人であることもありますが、「house」も同様に「家」と訳され、むしろこのほうが一般的です。血縁関係者としては「氏」も使われるため、小さな「氏」…
江戸時代前期の出来事を年表にまとめた。 江戸時代 は 日本の歴史の時代区分の一つである。 前は 安土桃山時代 後は 明治時代 関連記事 参考 江戸時代の小区分 江戸時代初期の概要 江戸時代前期の概要 江戸時代前期の文化 江戸時代 初期・前期 の出来事 1590年 (天正18年) 小田原征伐 1590年(天正18年) 利根川東遷事業 1590年(天正18年) 神田上水 開削 1592年(天正20年) 日比谷入り江 埋立 1600年 (慶長5年) 4月 リーフデ号 漂着 1600年 (慶長5年) 10月関ヶ原の戦い 1602年 (慶長7年) フランシスコ・デ・モラレス 来日 1603年 (慶長8年…
天下人の地位に就いた徳川家康は1603年に朝廷に対して征夷大将軍に任命するように要求しました。 Getting the position of ruling over all the domains in Japan, Ieyasu Tokugawa requested that the dynasty appoint him Seii Great Shogun in 1603. そして、同年に幕府を江戸に開き、江戸時代が幕を開けました。 He established Bakufu in Edo in the same year, and Edo Era started. ちなみに、1573年…
今日見た関口宏が江戸時代について語っている番組で、吉原の遊郭についてやっていた。それによると、吉原の遊郭は、2代将軍の徳川秀忠の時代にできたと言っていた。それについて、はじめて知ったので意外と思った。
大久保長安 長安の父・大蔵信安は祖父の代より継承された猿楽師(狂言師)であり、その次男として天文十四年、甲斐国で生まれた。信安は猿楽師として武田信玄のお抱えであり、息子の長安は信玄の家臣となり武田領の黒川金山などの鉱山開発に従事していた。 その後、信長・家康連合軍の侵攻(甲州征伐)により武田家が滅亡すると、長安は鉱脈発掘に長けた山師の才能を認められ家康の家臣として仕えるようになった。更に長安は大久保忠世の長男・大久保忠隣の 与力に任じられ、姓を大久保に改めた。そして、甲斐の内政再建を任された長安は釜無川や笛吹川の堤防復旧や新田開発、金山採掘に尽力し、わずか数年で甲斐の内政を再建した。この実績を…