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島田魁

(一般)
しまだかい

魁(かい。さきがけは誤り)。新選組調役並びに監察、伍長。美濃国厚見郡雄綱村出身、1828(文政11)年1月15日〜1900(明治33)年3月20日、享年72歳。

大垣藩郷士近藤伊右衛門の次男として生まれる。幼少の頃、木曽川奉行をしていた父は、木曽川の氾濫により御用材を流失してしまい、その責任をとって切腹した。
まもなく母は子供達を置いて再婚した為、母の姉の嫁ぎ先に引き取られ、その後、義父が死去したためやむなく母の生家・川島家に引き取られた。
川島家に身を寄せた頃、村相撲に出場すると大人をも投げ飛ばす怪力は近所の評判となり、それを見込まれて尾張藩士の家の奉公人になった。
この頃から剣を学びはじめたが、入門した道場では敵う相手がいなくなったという。
いずれは剣で身を立てようと思った彼は名古屋を去って江戸に下り、心形刀流坪内主馬の道場で腕を磨き、文久元年に免許皆伝。代稽古も任せられる腕にまで成長した。この時に永倉新八と出会う。
その後名古屋城内で開かれた撃剣会で優勝し、大垣藩島田才の養子となる。京へ登り槍術を学ぼうと師を探している時新選組の隊士募集を聞きつけ、永倉と再会。
文久3年3月に新撰組へ加盟。
大坂角力事件、池田屋事件、油小路事件、鳥羽伏見の戦いなどに参戦し、五稜郭落城後、函館の称名寺に収容される。謹慎の後、明治2年に尾張藩江戸屋敷へ預け替えとなる。さらに明治3年、名古屋に護送され幽閉された。
明治5年に赦免され、家族と共に京へ住み、雑貨屋とレモネード屋、書状切手売りなどをした後、島田魁撃剣道場」を開いた。
西本願寺の境内で最期を迎え、葬儀のお悔やみ帳には「杉村義衛(永倉新八)」の名があったらしい。

島田魁について

大坂角力事件の際、1対1で先頭の相撲取りに飛びついたのが島田であったという。
相手と組むと「えいっ!」と声を上げ、相手の巨体を一回転させ、見事その場に叩き付けた。この時、その怪力ぶりを見た敵も味方も唖然としていたという。
この時から同士からは親しみの意味をこめて「力さん」と呼ばれるようになった。
他に彼の怪力ぶりを示す有名エピソードとして、鳥羽伏見の戦いの際、土塀を登れない永倉に銃を差し伸べて軽々と引き上げたと言う話が残っている。

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