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宮川淳

(アート)
みやかわあつし

美術批評家。

年譜

1933年3月13日 東京市大森区に生まれる。父船夫、母芳。四男。
1937年 外交官である父の譜赴任地モスクワへ。(舞鶴、ウラジオストック経由)
1939年 パリ--地中海--印度洋経由帰国。
1945年 上野--新潟--清津経由、父の赴任地のハルピンへ。
1946年 ハルピンを引き揚げ帰国。
1949年 友人らとフランス語の勉強会をはじめる。リーダー格であった。
1953年 東京大学文学部美術史学科へ進学。この年から翌年にかけて種村季弘、吉田喜重、石堂淑朗らとともに同人誌『望楼』を刊行する。またこの頃からフランス語テクストの読書会を始める。中川信、石堂淑朗、種村季弘、阿部良雄がメンバーであり、1957年頃から清水徹が加わる。石堂、種村に代わって一時は稲田三吉が参加したこともあり、1964年からは豊崎光一が加わる。講読テキストはブルトン、ボンヌフォア、ブランショ、ポーラン、バタイユ、メルロ=ポンティ、ロラン・バルト、レヴィ=ストロース、ラカン、デリダなどを読む。1974年頃からはマラルメ読書会の性格を帯び、渡辺守章、菅野昭正、田中淳一が加わる。宮川は始終一貫して中心的存在であった。
1955年 大学卒業。日本放送協会に就職。
1956年 大学時代の師のすすめでフランスの画家ジャン・パゼーヌ「今日の絵画に関する覚書」を共訳する。以後の『美術手帖』『みずゑ』他、美術関係執筆の端緒となつた。
1959年 斎藤陽子と結婚。
1960年 『新思潮』同人会に出席。現代詩人会に出席
1963年 「アンフォルメル以後」をもって美術出版社の芸術評論募集に第一席入選。審査委員は瀧口修造、浜口隆一、針生一郎。
1965年 日本放送協会を退職。成城大学文学部講師となる。
1966年 レゴ大会に長男達の名で「コンクリート・ミキサー」、「観覧車」を出品、銅賞、アイディア賞を受賞する。
1967年 『鏡・空間・イマージュ』(美術出版社)刊行。
1968年 文芸学部芸術コースの学生たちと海外研修旅行。カイロ--アテネ--クレタ島--ローマ--アッシジ--フィレンツェ--ラヴィンナ--パリ--トレード--マドリッド。
1969年 成城大学文学部助教授となる。
1970年 パリに滞在。滞在中にロンドン、アムステルダム、ウィーン、ミラノ、フィレンツェ、シエナ、サンジミニャーノ、ピサ、ルッカ、ピストイア、ローマ、ナポリ、ペストゥムなどに旅行。
1971年 東京大学非常勤講師、ロラン・バルト『モードの体系』を講読。パリに滞在。ポワティエに旅行。
1972年 東京都立大学人文学部フランス文学科非常勤講師。大学院ではマルセル・デュシャン「塩の商人」などを、学部ではブランショ、デリダなどを講読。
1973年 パリに滞在。マルセイユ、ニース、ストラスブール、フランクフルト、ケルン、ハンブルグに旅行。
1974年 『紙片と眼差とのあいだに』(エディシオン・エパーヴ)刊行。
1975年 日伊協会のイタリア語上級講座に参加。
1976年 パリに滞在。フィレンツェ、シエナ、ヴェネツィア、マントヴァ、ミラノ、トリノへ旅行。
1977年 パリに滞在。マルセル・デュシャン展を見る。3月に発病し、妻に付き添われて帰国。
1977年10月21日 S字状結腸癌の移転による肝臓癌のため、午後1時2分死去。
多摩墓地に眠る。

『宮川淳著作集』の略年譜から 

著書

  • 『宮川淳著作集I・II・III』 美術出版社
  • 『引用の織物』 筑摩書房
  • 『鏡・空間・イマージュ』 風の薔薇叢書 
  • 『美術史とその言説』 中央公論社
  • 『紙片と眼差とのあいだに』 小沢書店
  • 『ディアーナの水浴』 ピエール・クロソウスキー著 宮川淳・豊崎光一訳 風の薔薇 
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