60〜70年代のプロ野球選手。
右投右打、ポジションは投手。背番号は16→18→15番。
1944年8月17日生まれ。沖縄県那覇市出身。
1962年、沖縄高校のエースとして甲子園に出場。
卒業後琉球煙草に入社。
1963年、大分鉄道局の補強選手として、社会人野球で沖縄県出身者として初めて都市対抗野球*1に出場。
1964年、広島カープに入団。沖縄県出身者としては初めてプロ入り選手として注目を浴びた。
1968年、根本陸夫に見出されエース投手となる。23勝を挙げた。
1975年、若生智男との交換トレードで阪神タイガースに移籍。12勝5敗、防御率1.91で最優秀防御率とカムバック賞に輝いた。
1980年、広島東洋カープに復帰。カープの黄金時代に貢献。
巨人戦に強く、34勝を挙げ「巨人キラー」として名を上げる。
1981年、現役引退。通算成績は655試合、119勝124敗。
引退後は広島東洋カープの投手コーチに就任。黄金期の投手陣を形成する。
1994年、二軍監督に就任。1997年、退団。
退団後はRCC中国放送の野球解説者の側ら、マスターズリーグ・福岡ドンタクズの選手としても活躍。
トレードマークとなるひげを生やす。
2005年、一軍投手コーチに復帰。同年、退団。
同年、那覇市に安仁屋ベースボールクラブを設立。
2006年、22年ぶりの自由契約選手となる。