戦後のプロ野球選手。通称「青バット」「ボンちゃん」。
左投左打、ポジションは外野手。背番号は3番。
1922年12月15日生まれ。兵庫県生まれ、台湾・高雄出身。
1936年台湾高雄市に移る。明治大学在学中に応召、陸軍航空隊員となる。
1945年9月、復員後、セネタースに誘われ入団。同年11月の東西対抗戦で6打数3安打で飾る。
1946年、20本塁打を記録*1
1947年からは川上哲治の赤バットに対抗し、青バットの使用を開始。二度目の本塁打王と初の首位打者を獲得。赤バットの川上、青バットの大下と並び称された。
1949年、東急フライヤーズで日本プロ野球最長とも言われる推定飛距離170mの本塁打*2を放つ。
1950年からの二リーグ分立後もフライヤーズに属し、初年度から二年連続首位打者。1951年、三度目の本塁打王を獲得。
1952年、宇高勲の説得により、深見安博・緒方俊明との1対2の交換トレードで西鉄ライオンズに移籍。
三原脩*3の元、ライオンズ野武士軍団の3番打者として、1956年以降の3年連続日本一に大いに貢献。チームを支えた。
1リーグ制末期から草創期パ・リーグを代表する大打者として戦後日本のプロ野球を支えた。
1959年、打率.303を残しながら現役引退。
1960年3月1日、背番号3番が永久欠番*4となる。
1961年、阪急ブレーブスのコーチに就任。
1968年、東映フライヤーズの監督に就任し復帰するも、成績不振の為にシーズン途中で退任。
1978年、脳血栓で倒れる。
1979年5月23日、千葉市内の自宅で睡眠薬自殺し、逝去。
1980年、野球殿堂入り。