将軍や大名の側近となって、芸能や雑役に従事した人々。 で、時宗の僧が多く、「○○阿弥」と号した。 〈よって昨今復帰で喧しい「鈴木アミ」もこの一員;「同朋衆」なのだ!〉
(1).能 : 「観」阿弥、「世」阿弥 (2).水墨画・連歌 : 「能」阿弥(1397〜1471) (3).書院造 : 「相」阿弥 (4).作庭 : 「善」阿弥 (5).立花 : 「立」世阿弥 (6).美術品鑑定 : 「芸」阿弥
[0701]北野天満宮の祭神は【 】である。(2012)[0702]千本三条の北東角には、かつて在原行平が創設した【 】があり、その跡を示す石標がある。(2019)[0703]法然を開山として知恩院の諸堂を興したのは【 】である。(2011)[0704]木津川市内の寺院で、重要文化財の不動明王立像(白不動)を所蔵し、蔵王権現を本尊とすることから「北吉野」とも呼ばれるのは【 】である。(2014)[0705]世阿弥の能は、現在の【 流】へとつながる。(2005)[0706]豊臣秀吉による都市改造の一つは、【 第】の建設である。(2005)[0707]妙心寺の塔頭【退蔵院】にある国宝の水墨画【①】…
2023年11月23日(木)来年の大河ドラマは紫式部が主役の『光る君へ』なのでブームが訪れる前に、一足早く『源氏物語』宇治十帖ゆかりの地をめぐってみました。 紫式部像と宇治橋宇治橋西詰の紫式部像。「宇治十帖」は『源氏物語』のスピンオフ的な部分で、紫式部が作者でないとする説もあるほど謎の多い作品です。光源氏の子(薫)と孫(匂宮)という二人の貴公子と、政争の果てに零落した宮様の三姉妹(大君、中君、浮舟)を中心に、もつれにもつれた愛憎劇が宇治の地で展開していきます。『源氏物語』はもちろんフィクションですが、人々は現実の出来事であるかのように夢想し、物語にちなんだ「宇治十帖の古蹟」を宇治各地に定めまし…
式正織部流「茶の湯」の世界を書き始めておよそ3年半になります。 鎌倉幕府が開かれ、武士の世が到来した頃から書き始め、天下分け目の戦いの大坂の陣まで書き通して参りました。そして、武士とは何か、武士の間に広がった茶の湯とは何かを、権力闘争や文化など、余りにも多方面にわたって触れてきたせいで、焦点がぼけてしまった感があります。 古田織部はウニのよう、と書き始め、ウニの棲む海の世界を描き、ウニの正体を暴(あば)こうとして参りました。いやいやどうして、なかなか一筋縄ではいきません。あと、もうひと踏ん張りと意を新たにした今、数寄屋書院の傑作と言われる桂離宮の項に至り、千利休や古田織部の生き様とは全く違う別…
1493(永正4)年6月に畿内の覇者であり幕政を取り仕切った細川政元が、細川京兆家の後継者を巡る家中対立が原因で暗殺されました(永正の錯乱)。 政元の暗殺後、細川家中は阿波守護家出身で三好之長ら阿波衆の支持を受ける澄元と、従来の細川京兆家重臣である畿内国人衆の支持を受ける高国という政元の二人の養子を担ぐ二派に分裂。 澄元は11代将軍・足利義澄、高国は10代将軍・足利義尹をそれぞれ戴いて相争う状況になります。 この混乱の中、細川政権のもと大和を支配した赤沢朝経、長経父子が相次いで戦死し、領地を追われた筒井氏、十市氏、箸尾氏ら大和国人衆も、相次いで大和の故地へ復帰しました。 一方、河内では畠山尚順…
<番組紹介> 目に見えない香りに親しむため、 日本人は様々な形を編み出してきた。 室町時代には芸道「香道」が確立、 500年に渡って受け継がれてきた。 その源である「香木」は、 輸入品で元々希少な上、 近年は環境の変化で ほとんど手に入らなくなっている。 志野流香道では今年5月、 家宝である香木「蘭奢待(らんじゃたい)」を 徳川家康公に供える献香式を執り行った。 そのドキュメントと 日本人の香りとのかかわりを描く。 <初回放送日:令和4(2022)年7月15日(金)> <番組紹介> 美の壺1.時を超えて伝える 香りを放つ樹木(「山田松香木店」山田英夫さん) 和の香りのルーツ(梅薫堂の職人・鯉住…
企画展「唐ものがたり 画あり遠方より来たる-香雪美術館の中国絵画-」 ■2023年6月17日~7月30日■中之島香雪美術館 初公開作品を含む、かなり渋めラインナップで組まれた「裏技的」中国画特集です。 村山コレクションの奥深い魅力と、捻りが効いた企画アイデアの面白さが同時に堪能できる展覧会に仕上がっていると感じました。 www.kosetsu-museum.or.jp 展示されている29作品の内、作者名の前に「伝」がつく作品が23件もあります。 かなりの比率で、誰が描いたのか特定できない絵画が展示されていることになります。 たとえば周文のように「基準作」がいまだに見つからないことから一律「伝周…
神奈川県立歴史博物館で特別展『あこがれの祥啓』を開催している。祥啓という画僧を今でこそ知る人は少なくなったが、江戸時代には贋作も出るほどの人気があった。祥啓が活躍した時代は、室町時代の中期で、雪舟と同世代かあるいは少し下がる世代である。しかし生没年不詳で自画像もないので、不明な点が多い。史料上彼が初めて現れるのは、同朋衆の芸阿弥が別れに際して贈った『観瀑図』に記載の賛である。そこには、京都で3年間学んで鎌倉に帰る祥啓に、はなむけとして贈ったとなっている。この絵が書かれたのが1480年なので、1478年に祥啓は京都に上ったことが分かる。 芸阿弥「観瀑図」(根津美術館所蔵、重要文化財)水墨画は、筆…
朽木谷と言えば光秀が来たエピソードがあったはず。「国盗り物語やな」 「あれも道三編はおもしろかったけど」 やっぱりあれもフィクションとか、「あれは可能性を膨らませただけや」 「無いとは言い切れないよ」 光秀が朽木谷を訪れたのは義輝の時、「司馬遼太郎も義輝に会わせんかったんはさすがや」 「いくら落魄しても将軍だものね」 身分差は朽木谷に来ても絶対なのか。「なおさらのとこはあったと思うで」 「それぐらいしないと権威を保てないじゃない」 だから義輝ではなく細川藤孝に会わせたとか。「あれなかなかの発想だよね」 「コトリも信じ込みそうになったぐらいや」 光秀と藤孝の交流は深いのは事実だそうで、その始まり…
自宅の根津から上野、浅草、そうして向島を散歩して永井荷風ゆかりのところを訪ねた。 この界隈へ来るとまずは長命寺にある成島柳北(1837-1884)の碑にごあいさつしなければならない。なにしろ荷風が尊敬してやまなかった人で、「隠居のこごと」には「成島柳北の紀行随筆の類は余が青年の頃より今に至るも読んで猶飽かざるものなり。柳北は世人の知られるが如く旧幕府の儒臣なり。瓦解の後明治政府に仕ふるを好まず。明治五年浅草本願寺の法主に随つて欧州に漫遊し帰朝後朝野新聞に聘せられ才筆一世を風靡せり。明治十七年十一月晦日四十八歳を以て濹上の邸に逝きぬ。向島長命寺に半身像を浮彫にしたる石碑ありき。十年前に余の見たり…