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三国干渉

(社会)
さんごくかんしょう

日清戦争後、露仏独三国による日本への外交上の要求。

1895年4月、下関条約の締結直後に三国の公使が「遼東半島を日本が保有することが東洋の安定を損なう」としてその放棄を求めた。日本側は外相・陸奥宗光の案に従ってこれを受け入れ、同年11月に遼東半島を返還する代わりに清から3000万両(テール)を得た。

結果

日本はこの事件を外交的屈辱と受け止め、また、ロシアの南下の意図を脅威と認識、「臥薪嘗胆」を唱えて対露戦備の建設へと向かった。
列強はこの地域への影響力を拡大すべく清朝との取引*1に乗りだし、イギリスは威海衛を、ドイツは膠州湾を、ロシアは旅順と大連を、フランスは広州湾を、それぞれ租借した。

補足

なお、「三国干渉」といっても、これはヨーロッパ的外交技術の産物であって、三国が日本の勢力の伸張に不快感をもったから行ったのだ、というだけでは正確を欠く。
すでに書いたように清への影響力の拡大*2という思惑もあったが、それ以外にも三者三様の目的があった。

ロシア
彼らの永遠の欲望たる「不凍港の獲得」を達成するべく本能的な南下*3を行おうとしていた。
ドイツ
この件で日露が仲違いすればそれはロシアのヨーロッパでの力を削ぐことにつながるので誠に結構だと考えていた*4
フランス
直接の利害としては比較的薄いが、遠交近攻に従ってロシアとの伝統的な友好関係を強化する立場から、また独露の接近による欧州情勢の安定化を望む立場から加わっていた。

*1:というか脅迫?

*2:自国領の処分に関して他国の容喙を許すというのは、つまりはそういうことだ

*3:だけではないが

*4:現時点で友好国だろうが何だろうが、隣国の力が大きすぎることは好ましくないと思考するのが欧州的常識である

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