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レジデンツ

(音楽)
れじでんつ

70年代初期よりアメリカ西海岸で活動する謎のバンド。

レジデンツ公式経歴書

人に関して決して忘れがたいもの、それはその人の性別であると言われている。
ザ・レジデンツに性別はない。
次に印象的なのは顔である。
ザ・レジデンツに顔はない。
3番目に印象に残るのは性格である。
ザ・レジデンツに性格はない。

 売れなければそこでは存在が認められず、そして性格が良ければ良いほど売り易くなるのが常識であるにもかかわらず、なぜザ・レジデンツはこのような不利を携えわざわざ資本主義文化の市場に参入するのだろうか?20年以上、この顔のない、アンチ・スター達はアメリカの意識の端や外におぼろげに存在してきた。この間ずっと彼らは、意識的に自分達の素性と個人的生活を謎に覆い続けてきた。


 明らかにもくろまれた”謎”を作り出すということは、彼らが”グループ”、つまり彼らの定義するところの独自の心と意志と方向性を持つひとつの有機組織になって最初に決意したことだった。この決意の本質は徹底して個人の生活とプロとしての生活を分離することだった。匿名であることはこれまでもそして今も変わらぬかれらの掟である。今日までこれを守っている。


 そこで、この経歴書の目的だが、当然のことながら、ザ・レジデンツの一人が元プレテスタントの牧師あるいはもう一人がシャム双生児の父親、そして後の一人は鉄道モデルの世界一のコレクターだということをお知らせするためのものではない。これは大分以前に公表した作品とは関係のない個人的なインフォメーションのようなものである。ここでの目的はある歴史的観点から知られていなかったいくつかの事実を提供することにある。


 ザ・レジデンツのキャリアは1970年頃カリフォルニア州サンマテオで始まったと一部で言われている。彼らはごく初期の頃から音楽とサウンドに関心があったが、ミュージシャンではなかったため、テープレコーダーが彼らの主たる道具として選ばれた。ザ・レジデンツは”ホーム・スタジオ”を活用した先駆者であり、4トラック、8トラック、16トラック、デジタル・レコーダーがそれぞれ市場に出回ると、いつでも最初のモデルをいちはやく手に入れてきた。1972年に最初の作品としてクリスマス・カード(今日では伝説的になっている『サンタ・ドッグ』という2枚組シングル・レコードのセット)を出す以前に、彼らはありとあらゆる音楽的なアイデアを実験していた。それ以来、彼らはアルバム20枚分以上のレコードと数々のシングル盤とEPを発表してきた。そのどれもが彼らのトレードマークである著しく風変わりな実験で満たされている。


 音楽とサウンドを使ったアイデアの追究が前向きなことであると実証する一方で、ザ・レジデンツはまだ満足を得られずにいた。1976年にこの姿勢と古新聞の束が興味深い結果を生み出した。それは”音楽ビデオ”と呼ばれる新しいアート・フォームだった。数年後の1982年に、ニューヨーク近代美術館はザ・レジデンツをこのアート・フォームの発明者として認め、”ザ・サード・ライヒンロール(The Third Reich N’ Roll/第三ロックン帝国)”と”ザ・レジデンツ・ワン・ミニット・ムーヴィーズ(The Residents’ One Minute Movies/ザ・レジデンツの1分間映画)”を永久コレクションに加えた。


 ザ・レジデンツはたゆまぬ創作意欲でさらに前進して行った。彼らにとって最初の10年間はワイルドで実り豊かであったが、自分達がスタジオに閉じこもりきりで内向的であると感じ始めていた。生の観客を前にしたリアル・タイムのパフォーマンスは挑戦するに十分値するように思えたので、彼らアイディアをステージで披露することにした。その定義すらまだ存在していなかった時代のパフォーマンス・アーティストとして、ザ・レジデンツのショーは、彼らの音楽とビデオのように独創的なものであった。日本、ヨーロッパ、アメリカをツアーし、彼らは1982年から1990年の間に3種類の作品で200公演を敢行した。


 1992年、20年間、音楽作品、ビデオ、ライヴ・パフォーマンス、TV作品(MTVとピーウィー・ハーマン)、そして2冊の本を世界中に送り出してきて、ザ・レジデンツはこの機に少しばかり過去を振り返ろうと決意し、彼らの友人達もこれに手を貸してくれた。1992年7月、信望のあるボイジャー社が彼らの長いキャリアにおける主要な出来事を正確に編集したインタラクティヴ・レーザー・ディスクを発売し、10月にはニューヨーク近代美術館が映画とビデオ作品のインスタレーションを協賛した。ザ・レジデンツもカビが生えるほど古臭いアイディアを用いて、『アワ・ファイネスト・フラワーズ(Our Finest Flowers/私たちの最高の花)』という愛らしいタイトルの輝かしい新アルバムを制作し、この祝典に華を添えた。


 しかるに、あの衰えることのなかったエネルギーもいよいよ尽き始めたのだろうか?20年余も、アンチ・フェイムの名のもとに、やりたい放題に芸術活動をしてくれば十分だったのではないか?ボイジャー社は1994年初頭に、ザ・レジデンツの最初インタラクティヴCD−ROM『ザ・レジデンツ・フリーク・ショー(The Residents’ Freak Show』を発売した。CD『フリーク・ショー』(1990年)とグラフィック小説(1992年)を基に、著名なアニメーター/デザイナーのジム・ラドキ−との共同作業から生まれた同CD−ROMが高い評価を得たことにより、ザ・レジデンツは前人未到の新しいアート・フォームの領域へと導かれることになった。インタラクティヴ・アートに対する興味の地固めをしながら、ザ・レジデンツは1994年に『ザ・ジンジャーブレンド・マン(The Gingerbread Man)』もリリースした。BMGのインタラクティヴとニュー・マルチメディア・レーベルのIONから発売された同ディスクは、アルバム全体がマルチメディアとオーディオ・オンリーの二つのフォーマットに収録されており、発売と同時に大きな話題を呼んだ。


 まったく衰える兆候も見せず、ザ・レジデンツはジム・ラドキ−との共同作業により、最新CD−ROM『バッド・デイ・オン・ザ・ミッドウェイ(Bad Day On The Midway)』を完成させた。同ディスクは1995年11月にニュー・マルチメディア出版のインスケイプにより発売されワーナー・インタラクティヴ・エンタテイメントにより販売された。さらに、ザ・レジデンツはザ・ディスカヴァリー・チャンネルの10時間連続番組用に曲を書き、プラハのアーチャ劇場で上演されたライヴ版『フリーク・ショー』の作曲/脚本/監督を担当し成功させた。


 おそらく、誇大広告で飽和状態になり本質を欠いている文化の中において、アンチ・フェイム−名声に反抗すること−はそれ自体が報酬となった

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