劇団民藝 銀座、墨東、浅草、オペラ館とつづいてきた荷風の遍歴は、葛飾情話の上演をもって頂に達しそれ以降は滞留と戦争の進行にともなう窮迫の道をたどっていく。情話そのものは文学的達成というよりパトロンの道楽に近いものだったが、そこから映画製作への発展がありえた。これまでの足取りで明らかなのは、世間の印象とちがう荷風のコミュニケーション力の高さだ。しかし時局にふさわしくないとの一語で、その道は閉ざされてしまう。銀座浅草の往復はつづいたが、残されたのは焼亡に向かう日々となる。 昭和13年(1938) 6月1日、「この夜閉場後永井眞弓の二人と銀座不二地下室に至り安東氏と会見しレコード吹込の相談をなす。帰…