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黄巾の乱

(社会)
こうきんのらん

中国後漢末期に流行した宗教である太平道の教祖だった張角が首謀者として起こした反乱のこと。反乱軍が黄巾(黄色い頭巾)を頭に巻いて戦っていたからこう呼ばれている。光和6年(184年)の2月に勃発し、同年の10月まで続いた。

当時の漢王朝霊帝十常侍宦官を信任して政治を腐敗させ、清流派の官僚が遠ざけられるなど(党錮の禁)して弱体化していた。張角は、洛陽に部下の馬元義を派遣し、宦官の封勝ュ、徐奉と内通して一挙に漢王朝を滅ぼす計画を立てていたが、これは部下の寝返りにより発覚し、馬元義は処刑され張角の逮捕命令が出される事態となったため、張角は計画を変更して各地で挙兵をした。このときに張角は天公将軍と称し、弟の張宝と張梁はそれぞれ地公将軍・人公将軍と称した。

霊帝は党錮の禁を解除する一方で、外戚大将軍何進を討伐の総指揮官に任命し、皇甫嵩朱儁盧植といった部将を送って各地の黄巾の拠点を攻撃させた。黄巾賊は、広宗の張角の本隊の他、南陽に張曼成、潁川に波才という人物がおり、彼等やその部下らを中心に官軍に抵抗を続けたが、いずれも皇甫嵩らに敗退した。

首領の張角はこの途上で病死し、張梁と張宝も相次いで敗れ、乱は平定された。ただし、黄巾の残党と称する集団はその後も活動を続けており、後に献帝の東遷に協力した白波族や、袁紹と対立した黒山賊、それに曹操に帰順しその軍事力の中心となった青州兵の存在が知られている。

この乱によって後漢の統治能力の弱体化が露呈し、地方の軍閥化が進行し、やがて分裂した中国が三国時代に移る遠因となった。

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