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雍正帝

(一般)
ようせいてい

中国の清朝第五代の皇帝。姓は愛新覚羅、名は胤蘅(いんしん)*1、諡は憲皇帝、廟号は世宗。
1678年生、1735年没。在位は1722年〜1735年。
康熙帝の第四子。即位をめぐっては、大臣隆科多(ロンコド)が本来「十四阿哥*2」と遺勅を受けたのを買収により捻じ曲げた、などの噂があった。雍正帝自身は、そのためか、太子密建*3を創始した。
内閣大学士張廷玉・顎爾泰・怡親王胤祥らを親任し、消極的だが堅実な政治を行った。
雍正七(1728)年に地方の財政に関して養廉銀の制*4を設けて、官吏を廉潔にさせ、地方官との間には親展状(奏摺 そうしゅう)をやりとりし、その親展状を詳しく点検して朱筆で批評して送り返すという硃*5批諭旨を行い、政治の末端まで把握した。
また、人頭税(丁銀)を土地税(地銀)に組み込んで地丁銀に一本化して政府収入を安定させ、各地の賤民を良民に編入して徴税対象とし、雲南・貴州地方の苗族地域を内地化する改土帰流を大規模に実施した。
外征・外交は消極的であったが、青海地方の反乱を年羹堯*6・岳鐘蒞らを用いておさえ、青海・チベット方面の支配を確立。
また、ジュンガル部のガルダン・ツェレンを攻撃する際に、臨時に設けた軍務決定機関の軍機処が次第に国内の最高政務機関へとなり、内閣にかわった。
雍正二(1723)年にキリスト教宣教師のマカオへの追放を行ったが、一方でカスティリオーネ(郎世寧)など朝廷に奉仕し続けさせた者もある。円明園離宮は、もともとは雍正帝が親王であった時代に康熙帝から拝領した庭園を発展させたものである。
雍正六(1727)年にはロシアとの間にキャフタ条約を締結し、国境を定めて貿易を行った。

*1:蘅の字は示眞。

*2:第十四皇子。康熙帝崩御時にチベット地方への遠征司令官となり、康熙帝にも鍾愛されていた。しかし、雍正帝の時代には、康熙帝の陵墓の警備、そして後に十四阿哥擁立の陰謀があると乾隆帝の時代まで幽閉され続けた。

*3:皇太子を表立っては立てずに次期帝位継承者を軽清宮の玉座の正面に封書して皇帝が支持し、皇帝崩御後にその封書を開けて次期皇帝をその遺勅通りに決定するという方法。

*4:勤務地手当制。それまでは表向き地方の官制には給与的な部分がなく、そのため税を割り増しして給与相当の部分を勝手に地方官が取り立てるという状態であった。

*5:硃の字は石朱。

*6:康熙帝代からの総督で、妹は雍正帝の妃である年貴妃であったが、青海反乱鎮定後に失脚し、自殺させられた。

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