1536年?(天文5年)〜1598年(慶長3年)
戦国武将。織田信長家臣。元は木下藤吉郎で後の豊臣秀吉。
尾張国中村の出身。弟は羽柴秀長。
もともとは木下藤吉郎*1という名前で活動していたが、織田家臣の大先輩である丹羽長秀の「羽」と柴田勝家の「柴」の一文字ずつを取って名字としたとされる(元亀4年/天正元年/1573年ごろ)。
この時期の織田家は武田信玄の死を契機に足利義昭を追放して浅井・朝倉氏を滅ぼすなど、勢力基盤を一気に拡大している。秀吉個人も近江今浜を与えられて念願の城持ちとなっているので、「そろそろ武将らしい格好いい名前になりたい」と考えても不思議ではないとは言える*2。
今浜を景気づけに長浜と改めた秀吉は、後に豊臣政権の中枢を担う子飼いの武将・官僚をここで次々に見出していく。
織田家臣としては中国地方の攻略を命じられ、小寺官兵衛(黒田孝高)らと協力して毛利氏と戦う。途中、尼子氏再興失敗や荒木村重の反乱などがあったが、最終的には毛利家の本軍と対峙しつつ備中高松城を水攻めにする。同時に毛利との決着を付けるべく満を持して主君信長の出陣を要請。
このタイミング、天正10年6月2日に本能寺の変が勃発。事件の報に接した秀吉は大ショックを受けるが、黒田如水の歪んだ励ましによって立ち直り*3、何食わぬ顔をして毛利との和議をまとめて高松城を開城させ、上方への大返しを開始する。
6月7日には本拠姫路城に帰還。ただちに全力を挙げて京への進撃を開始し、天王山となった山崎の合戦で光秀軍を破り勝利。「主君信長の敵を討った」という強力な名分を手にすることに成功する。
いずれにせよ信長・信忠親子を失った以上、織田家の跡目を誰にするかは非常に難しい問題であり、次の天下人が誰になるのかを決する問題であることも確かだった。
織田家臣は分裂し、誰を後継者とするかを決める清洲会議が6月27日に開催される。この席で秀吉は信長の嫡孫三法師(織田秀信)を正統と主張し、丹羽長秀と池田恒興がこれに同調したことで一応の決着を見る。しかし、神戸信孝(織田信孝)を推していた柴田勝家と秀吉との対立が明らかとなり、以後、両雄は激突に向かって突き進んでいく。
翌年4月、賤ヶ岳の戦いの結果、勝家は敗れて越前北ノ庄城で自刃する。
旧織田家臣団の第一人者の地位はこれで秀吉の物となったが、まだ、天下の帰趨は定まらなかった。主君信長の最良の同盟者、徳川家康が残っていたからである。
秀吉の勢力拡大に不満を懐く織田信雄は家康に接近。家康も佐々成正や長宗我部元親ら各地の反羽柴勢力を糾合して対抗する機運を見せる。
天正12年(1584年)に秀吉軍と家康軍は尾張国で対陣する。が、大規模な激突は結局最後まで発生せず、秀吉軍の奇襲部隊が逆に家康軍の奇襲によって壊滅される(小牧・長久手の戦い)一戦だけが行われただけだった。
秀吉はここで、戦の名分となっていた織田信雄を切り崩して和睦に持って行き、ついで名分を失った家康とも講和した。
翌年、家康は秀吉に臣従し、秀吉は朝廷から天下人と認知され関白位と新たな姓「豊臣」を与えられることとなる。