子どもの頃、私はよくこんな空想をした。友人や家族、道ですれ違う人たち、すべては幻である、と。 他者が存在していると信じ切ることができなかった。未だに確信を持てずにいる。だって、証拠なんてどこにもない。 自分が存在していることは、なんとなく信じられる。私は自分の過去の記憶の断片たちを、ある程度整合性が保たれた状態で想起することができる。机の角に手をぶつけたら痛みを感じるし、珈琲が飲みたくなれば今から台所に行って淹れてくればいい。それは、私が「心」を持った実在する人間だからだ。そういう風に自分の体験を理解することは、私にとっては容易いことだ(実はこの文章を書いている間に、自分の存在への確信が揺らい…