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江藤慎一

(スポーツ)
えとうしんいち

プロ野球選手・監督。正字は「愼一」。
通称「闘将」。
右投右打、ポジションは捕手→外野手。背番号は8→12→8→12番。

1937年10月6日生まれ。熊本県出身。
熊本商業高校から日鉄二瀬に進む。
1959年、日鉄二瀬の監督、濃人渉に誘われ、中日ドラゴンズに入団。
1年目より正捕手として定着。

1964年、外野手に転向。同年、1965年と二年連続で首位打者を獲得。
スラッガーとして1960年代のドラゴンズを支えた。

1970年、水原茂監督と対立し、一度現役引退。
濃人渉に招聘され、川畑和人との交換トレードでロッテオリオンズに移籍。

1971年、主砲としてリーグ優勝に貢献。両リーグでの首位打者を獲得。
1972年、野村収との交換トレードで大洋ホエールズに移籍。

1975年、河原明・田中章との1対2の交換トレードで、太平洋クラブライオンズに移籍。
選手兼任監督に就任。指名打者として活躍。山賊打線の中軸を担う。

1976年、レオ・ドローチャー招聘*1の為に監督を解任され、ロッテオリオンズに復帰。

同年、現役引退。


顎をひいた威圧感ある構えからステップせずに重心を残して豪快に振り切るバッティングで、両リーグにおいて超一流の成績を残した。

また、一塁へのヘッドスライディングなど、常に闘志を前面に押し出す姿勢は「闘将」と呼ばれ、他球団に恐れられた。

星野仙一や大島康徳に影響を与えた。

1985年、静岡県田方郡天城湯ヶ島町(現・伊豆市)に「日本野球体育学校」を設立。
その後、「天城ベースボールクラブ」と名称を変更。
大西崇之を育て、業務提携した社会人チームのヤオハンを2度、都市対抗野球大会出場に導いた。

また、自由連合の比例代表候補として、衆議院議員選挙に立候補、落選した。


2008年2月28日、肝臓がんのため東京都内の病院で逝去。


弟は江藤省三

*1:病気のために来日せず、結局失敗した。

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