プロ野球、阪神タイガースの選手・監督。通称「炎の男」 「ミスタータイガース」。
右投右打、ポジションは投手。背番号は11番*1。
1936年12月10日生まれ。兵庫県出身。
関西大学では上田利治とバッテリーを組む。1958年、大阪タイガースに入団。
長嶋茂雄とのライバル物語は伝説。
「ザトペック投法」と呼ばれるダイナミックなフォームで、フォークボールを武器に活躍。
1960年代を代表する投手として活躍。1966年は「昌史」に登録名変更。
1970年、選手兼任監督に就任。この年の防御率0.98は、未だに破られていない。
病気のため1972年、選手専任に戻り、同年現役引退。
引退試合では江夏豊、上田二朗を従えて騎馬戦の状態でマウンドに向かい登板。
背番号11は阪神タイガースの永久欠番。
1973年、よみうりテレビの野球解説者となる。
1988年、二度目の監督として、背番号11を着用して復帰した。少年隊など斬新な若返り策を展開した。
1989年、退団。
退団後はABCの野球解説者を務めた。
引退後、サインを求められると、必ず「阪神タイガース永久欠番」と添えて書いた。
1993年、野球殿堂入り。
1998年8月22日、逝去。
1963年8月11日対巨人戦、1−1の同点で迎えた七回裏、一死ニ塁三塁のピンチに、本間勝に代わって、村山実がリリーフのマウンドに立った。
バッターは池沢義行、2−2のカウントから村山は内角低めにストレートを投げ込む。
村山は絶対の自信でストライクと思ったが、球審・国友正一の手はあがらなかった。
ボールと判定された村山は血相を変えてマウンドを下り、国友球審に対し「何を見てるんだ! ばかやろう!」と激しい口調で抗議。
これに耐えかねた国友球審は即座に退場コールをする。驚いた村山はグラブを振り上げた。
この動作に対し、国友球審は村山が殴りかかろうとしたと勘違いし、それをよけようと手を前に出す。
運の悪いことに、この手が村山の顔に当たってしまう。
藤本定義監督、青田昇コーチがベンチから飛び出してきて、国友球審を追い詰める騒ぎにまで発展した。
村山は「手もあげてないのに、なぜワシが退場なんや」とボロボロと涙を流しながら抗議を続けた。
これが後に「村山実、涙の退場事件」として語り草となる。
結局、退場の判定は覆らず、村山は打者に対する投球を完了することなく退場となった。
なお、試合は延長10回、阪神が3−2で勝利している。
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*1:昭和11年生まれで、大学より11番にこだわった。