宗教家。教育者、同志社大学創設者。 英語名:Joseph Hardy Neesima 1843年2月12日(天保14年1月14日)生まれ。 1890年(明治23年)1月23日死去。
群馬県出身の新島襄は、群馬県の「上毛かるた」において29枚目の札「へ」で次のように詠まれている。
「平和の使い 新島襄」
新島襄の手紙 (岩波文庫)
小説・新島八重 新島襄とその妻 (新潮文庫)
*1:翌年到着
もう少し暖かくなったら京都に旅行に行こうと思っています。メインの目的はタイル巡り(タイルが素敵なお店を巡る)なのですが、せっかくなので久しぶりに趣味の学食巡りもしたいな〜、と。以前京都大学には行ったことがあって、学食もオシャレでおいしくお土産にオリジナルのビールも買って帰ったのですが、次に行くなら「同志社」と決めています。なぜなら私は大河ドラマ「八重の桜」が大好きだったから♡八重の二人目の夫がキリシタンの新島襄で、新島襄が私学の大学として作ったのが「同志社」の元となる学校。ドラマの中でも大学づくりのために奔走する姿が描かれていました。 (大河ドラマの中でも一、二を争うくらい好きなドラマでした♡…
正直、新島襄さんのことは大河ドラマ「八重の桜」のやんわりとした知識しかなく・・・ 函館観光の予定を立てているとき、 Googleマップの中に新島襄の名前を見つけた。 なぜこんなところに? どうやら、新島襄は幕末に海外へ密航していて その海外へ向かった地が箱館らしい。 箱館には、 ・新島襄ブロンズ像 ・新島襄海外渡航の地碑 があった。 ブロンズ像は、海外渡航150年を記念して作られたもので、 そのときの新島襄をイメージしているらしい。 新島襄ブロンズ像 地碑は、少し奥まったところにあった。 新島襄海外渡航の地碑 地碑には 吉田松陰が下田で海外渡航を試みて捕まったのを考慮して 箱館からから渡航する…
ガロのヒット曲「学生街の喫茶店」 今出川⇔新町間に喫茶店を探す 40年もたつと記憶と一致しない構内 新島襄が以前よりも活躍していた ガロのヒット曲「学生街の喫茶店」 私が10代だったころ、ガロという3人組のフォークグループが人気を博していて、その代表的なヒット曲に「学生街の喫茶店」というのがあった。ウィキペディアで調べてみると、発売されたのは1972年とあるから、私の大学在学中には、旬のヒット曲というより、すでにスタンダード曲の仲間入りを果たしていたのかもしれない。 いずれにしろ、学生時代によく通った喫茶店とそのころの「君」との想い出を歌った歌は私のお気に入りだった。歌詞のなかに、「ボブ・ディ…
熊本洋学校 そろそろテレビを観なくなっていた時分だったが、NHK 歴史大河『八重の桜』だけはときどき観ていた。綾瀬はるかさんが主役だったからだ。 前半の盛上りである会津戦争までは、綾瀬さんばかり観ていた。舞台を京都へ移しての後半、新島襄や同志社が出てきてからは、綾瀬さんそっちのけで、ドラマに観入った。熊本バンドの描かれかたは鮮烈だった。熊本洋学校が閉鎖になって、同志社へ大挙して移籍してきた猛者たちのことだ。 旧藩主、豪農、学者(多くは儒者)に進取の気質に富む賢人が多かった地域(藩→県)は、文明開化の立上りも早かった。熊本では明治四年に洋学校が開校された。知事(旧藩主)細川喜延は私財を投じた。 …
新島襄旧邸を訪れました。 が・・開いていませんでした・・・。 どうやら、限られた期間、事前予約等で見学出来るようですね・・。最近では例の新型感染症によって普段以上に閉鎖している面もあるかも知れませんね・・。 旧邸の前には、立派な石碑が建っていました (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 新島襄は、函館でも「お会い」しましたが、元治元年箱館からアメリカに密航したんですよね。 会津の「清水屋旅館」でもお会いしました。 和の造りでありながら、それでいて異国風な建物ですね チャンスがあれば、また訪れてみたいと思います @京都2021
少し難しいかな!? 同志社限らず宗教がバックの教育機関の掲示板では、それぞれのカラーが出ているところが多く面白い。このブログでも、大谷大学や花園大学、文教学園中高、高倉幼稚園を時々取り上げている。 知らないだけで、他にもっとありそうである。
京都市のある委員会が新島会館で開催された。お隣の新島襄旧邸では一本の梅の木が満開であった。
新島襄の眠る墓地は若王子と呼ばれる東山の山麓にある。 ここは同志社墓地といわれ、同志社の関係者が多く眠っている。 看板に登り口とあるように、ここから20分ほど山道が続いている。 襄と並んで八重の墓がある。 山本覚馬と両親なども同じ墓地で眠っている。 徳富蘇峰のお墓もある。 この手前には京都市の墓地もあるが、どういうわけか キリスト教のお墓も多かった。 こんな墓碑もキリスト教ならではか?
今年はNHKドラマ「八重の桜」で同志社創立者新島襄の妻となった新島八重がクローズアップされている。彼女の墓は襄ら同志社創立者とともに京都市左京区若王子山中にある同志社校墓地内にある。 哲学の道から 観光地として知られた哲学の道の始まるところ。後姿の女性が立っているところから右手へ行けば哲学の道で銀閣寺まで続く。そちらへ行かず若王子橋という小さな橋を渡ると若王子神社がありその先で山道が始まる。それにしても普段あまり自動車が通らないところだがこんなところへ救急車がやってくるとは何事か? 墓地案内の看板 割と新しそうな看板。今年になって訪れる人が増えて立てたのだろうか。新島襄の英語名はジョセフ・ハー…
同志社今出川キャンパスから京都御苑を抜けたまちづくり団体主催「冬の京都まち歩き会~同志社大学キャンパスツアーと新島襄旧邸見学~」、本日ツアーのメインテーマとも言える「新島襄旧邸見学」です。 同志社英学校(同志社大学)の創立者「新島襄」が妻「八重」ともに住まいした「新島襄旧邸見学」、北米コロニアル様式の外観を取り入れた純和風建築で、京都市により1990年から2年間かけて解体保存修理が施され一般公開されてます。 1876年に結婚、1890年42歳の若さで早逝した新島襄が妻・八重と一緒に何年此処で暮らしたかは良く存じませんが、旅先の群馬県・前橋で倒れ大磯の旅館で静養中に亡くなった新島襄最期の言葉は「…
3月15日金曜日 晴れ。暖かい。玉ねぎベーコン舞茸つぶつぶコーンのクリームパスタ。Sはらせん堂で買った『新居格 随筆集』を読み、完全にぼくの味方、と言いながら好きな箇所を朗読している。Sは往来座へ。遅れて出、M家に寄り椿絵を2枚持って往来座へ。2時過ぎにOさんが取りに来るのでSに預ける。アメリカの人が買ってくれたそう。絵が海を渡るのは3度目、シンガポール、オーストラリア、アメリカ。S家に戻り、絵。夜、M家に寄り母が作った手羽元とじゃがいも人参卵の煮物をもらい、セブンイレブンで絵をスキャンしてから往来座へ。お茶割り。miくん。青森行ってきたと話す。今日はよく売れた、とn。夕飯は、母にもらった手羽…
おはようございます。年度末ということでストレスがMaxでございます。 今日も朝から腹を下してトイレに籠っておりました。もう忙しくなると人間の本性が本当に出ます。誰だって余裕のあるときは優しくできるのです。仕事の大変さよりもむしろ人間の嫌なところを見せられてしまうことに強いストレスを感じます。 特に私の部署は電話をかけまくりますからもう声のトーンで明らかにいらついているのがわかる。明らかに理不尽な方は女性が多いですね。感情制御が苦手なのでしょう。 女性上司なんかは優秀な職場なのですがね・・・ ということで今回のテーマはもう一度人間性に立ち返るという意味で教育に関する会計テーマ「学校法人同志社の財…
日本聖公会の北関東教区と東京教区が新教区設立に向けて取り組んでいる「宣教協働特別委員会」の活動の一環である巡礼企画が、2月3日(土)、前橋聖マッテア教会を主会場に行われました。この巡礼のねらいは「北関東教区と東京教区の教会を相互に訪問し、その教会と置かれている地域について知り、人と地域の交わりが与えられる。」です。 マッテア教会にとっては、一昨年12月の東京教区聖アンデレ教会の皆さん、そして昨年10月の中部教区林間聖バルナバ教会の皆さんの訪問に続く、3度目の巡礼でした。 東京教区宣教主事の福澤眞紀子姉が3月3日発行の「きょうどう通信第11号」で「教会訪問記」としてこの巡礼企画について記しておら…
以前このブログで同志社に行きたいと書いていましたが yooko25.hatenablog.com先日の京都旅行で立ち寄ることができました〜!実は今回の旅行はなるべくゆったり行きたいところを回りたいと思い、同志社に行く予定は入れていなかったのですが、ランチに行きたいお店に向かうため地下鉄を降りてバスに乗り換えようと思ったら目の前に立派な煉瓦作りの建物… 同志社大学でした!目の前にあるなら寄らない訳には行かないので入ってみると 素晴らしい建物のオンパレード♡ほとんどの建物は入れませんでしたが、ハリス理化学館の中が創立者・新島襄に関する資料を紹介するギャラリーになっていたのでこちらにお邪魔しました。…
最近、自分の学的な背景を回顧するのではなく、専門研究をしている延長で気が付くことがあった。もともと学者になろうと思ったのは、大学二年生の時で、その時に福原嘉一郎先生の教養ゼミに入った。これは早稲田大学のとてもいい制度だと個人的には思っている。福原先生は旧制高校の最後の世代で、その伝統を自覚的に継承していた。ゼミナールは、単に知識を得る場ではなく、まさに人格的な陶冶を生み出す場だということが、福原先生が言うまでもなく(実際には本当になにかお説教的なことはいわない人だった)自然とゼミの雰囲気になっていた。本当の教養の場だったといえる。それにはさまざまな自由な雰囲気がなければならなかった。もちろん旧…
皆様方、いつも武録、お読みいただき、真に段々辱なうござりまする。さすらいの茶人愚味香に。「誰?」の声もありますが、いずれ、新しき章にて…いや、それはさておき、本題。明日、睦月十四日は、新島襄の誕生日(天保十四年)。よって、訪れたきは、築地軍艦操練所。 旧暦日付は 六曜・月齢・旧暦カレンダー を参照しております。 さあ、イム部の衆の活躍を知りたい方は、ローカル時代活劇、 Imbe-97 へ。 また、城砦るろうに、貴殿の御供仕る。 熊に出くわすことはあるかもしれませんが、そんな時の人身御供役、この城砦流狼人、仰せ仕りまする。料金その他、御相談に応じます。(概ね時給千円で承っております。交通費別途)…
その①の続きです。 安中宿に入ると、下木戸跡の碑があります。 此方が宿場の江戸側入口となります。 安中宿も、昔を偲ばせる建物が、点在しています。 本陣跡の碑を見つけました。 中山道から右に入ると旧碓氷郡役所跡。 此方は、現在資料館となっており、見学可能です。 もちろん、立ち寄りました。 お隣には、安中教会。 さらに旧安中藩郡奉行役宅。 此方も有料ですが、建物内に入れます。 室内は、江戸時代の生活を偲ぶことができ、貴重な経験となりました。 道を挟んだ所には、旧安中藩武家長屋も復元されています。 此方は、一部工場中との事で室内の見学は、残念ながらできませんでした。 そろそろお昼も過ぎ、お腹がすいて…
皆さんは高梁市(たかはしし)に行かれたことありますか? かつて城下町として栄えた場所であり、現在も当時の面影が残っている街なんですよ。 今回は【城下町の風情が残る高梁市を観光しよう!一度は訪れたいおすすめスポット】についてご紹介します。 観光で訪れるのに最適な街ですので、ぜひ一度観光めぐりをされてはいかがでしょうか。 高梁市の魅力について! 高梁市のシンボルになっている建物!【備中松山城】 アクセス方法 お城と合わせて訪れたい!【備中松山城展望台】 アクセス方法 ホッと一息つける空間が魅力!【天柱山 頼久寺】 アクセス方法 子供の頃を思い出す方も多い!【旧吹屋小学校】 アクセス方法 映画ファン…
午後、JR青梅線拝島駅から八高線で高麗川駅経由で高崎駅まで行きました。 信越線に乗換て、安中駅に到着。 駅ホームから改札につながっている連絡通路から、富士山が見えていました。 駅でめがね橋の位置を聞いてみたらまだ先の駅から離れたところにあるそう。 今日のめがね橋見学は中止にしました。 駅の窓口で「安中まち歩きマップ 新島襄 安中城址 ヒストリート」をもらって、目的地まで歩きました。 旧中山道沿いにある、丸田屋総本店へ行きました。 そば・うどんのすかや安中店。 便覧舎跡。 醤油専門店有田屋。 丸田屋総本店に到着。 お店で、豆腐のお菓子と昭和ロール(あんず)を購入。 お店の先に富士屋菓子舗という…
2月12日誕生日の全国35万人の皆さんおめでとうございます (拙句)若者も「同行二人」遍路みち 雅舟 【花】アセビ(ツツジ科) 【花言葉】 二人で旅をしよう【短歌】花房の白きアセビの続く道きさらぎの空高く晴れたり 釣り鐘形の小さな花が寄り集まって咲くアセビ。寒風吹きすさぶ澄み渡った二月の空は、たたけば音が聞こえてきそ うです。青空と白いアセビの花の対比が際立っていました。【季語】 馬酔木の花 あせび【俳句】 花馬酔木春日の巫女の袖触れぬ 高浜 虚子 馬酔木咲く金堂の扉にわが触れぬ 水原秋桜子 月よりも暗きともしび花馬酔木 山口 青邨 【三行詩】 標準和名アセビ 万葉集・秋桜子「馬酔木」はアシビ…
2月12日誕生日の全国35万人の皆さんおめでとうございます (拙句)若者も「同行二人」遍路みち 雅舟 【花】アセビ(ツツジ科) 【花言葉】 二人で旅をしよう【短歌】花房の白きアセビの続く道きさらぎの空高く晴れたり 鳥海昭子 釣り鐘形の小さな花が寄り集まって咲くアセビ。寒風吹きすさぶ澄み渡った二月の空は、たたけば音が聞こえてきそ うです。青空と白いアセビの花の対比が際立っていました。【季語】 馬酔木の花 あせび【俳句】 花馬酔木春日の巫女の袖触れぬ 高浜 虚子 馬酔木咲く金堂の扉にわが触れぬ 水原秋桜子 月よりも暗きともしび花馬酔木 山口 青邨 【三行詩】 標準和名アセビ 万葉集・秋桜子「馬酔木…
2月9日(金)中郡二宮町に在る「徳富蘇峰記念館」にて、「もう一度比べて見たい!各界名士の書簡展」開催。 「実業家」 徳富蘇峰宛て「森永太一郎書簡」 「実業家」 徳富蘇峰宛て「渋沢栄一書簡」 「文学者」徳富蘇峰宛て「森鴎外書簡」 「文学者」徳富蘇峰宛て「夏目漱石書簡」 「政治家」徳富蘇峰宛て「伊藤博文書簡」 「政治家」徳富蘇峰宛て「後藤新平書簡」 「教育者」徳富蘇峰宛て「新島襄書簡」 「教育者」徳富蘇峰宛て「新渡戸稲造書簡」 「才女」徳富蘇峰宛て「新島八重書簡」 「才女」徳富蘇峰宛て「九条武子書簡」 歴史に残る偉人の書簡は素晴らしい。 如何に技術の進歩があっても、「手書きの書簡」は素晴らしい。 …
さがみはら地域づくり大学の同級生、南区の数野さんが編集している情報誌『さがまち』201号が届きました。 数野さんのメッセージ、ご紹介します。 蝋梅から紅梅、そして白梅が咲きはじめました。 特に白梅は寒さに耐え、花開くなんとなく強さを感じる良さがあるように感じます。 昨年は久しぶりに小田原の曽我の梅林に観梅に出かけました。 この時期になると新島襄の漢詩を思い出します。 庭上一寒梅 笑侵風雪開 不争又不力 自占百花魁 みなさん寒い折なので、体に気おつけてください。 数 野 201号の主な記事 ・SLIM ・信楽焼のたぬき さがまち201号、お楽しみください!
恒春園に再訪。 前回は10分遅く閉門してしまったが、 入園できたとしても邸内を見て回るには暗すぎただろう。 夕陽に輝くネコヤナギ 東京都指定史跡 徳冨蘆花旧宅 所在地 世田谷区粕谷一丁目二十番一号 指 定 昭和六十一年三月十日 徳冨蘆花は、肥後国葦北郡水俣村手永(ひごのくにあしきたこおりみなまたむらてなが) ( 現在の熊本県水俣市浜二の六の五 ) に代々惣庄屋を勤めた徳冨家の三男として明治元年 ( 1868 ) 10月25日 ( 旧暦 ) に生まれた。名は健次郎。兄は猪一郎 ( 蘇峰 ) である。明治31年から翌年にかけて『国民新聞』に連載した長編小説『不如帰』が明治文学の中でも有数のベストセ…