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応仁の乱

(社会)
おうにんのらん

1467年〜1477年

室町時代の京都で起こった大乱。もともとは将軍家及び管領家の相続争いである。東軍総大将細川勝元と西軍総大将山名宗全の下に全国各地から招集された軍勢が京都*1に集結し、10年にわたって争った。
幕府のお膝元である京都が戦場となったことで幕府の権威は暴落*2、以後日本は戦乱の時代を迎えることとなる。

起源

足利将軍家8代目、足利義政(在1449年〜1473年)には子がなかった。このため、寛正5年に、出家していた弟をわざわざ還俗させて後継者とした(足利義視)。が、わずか一年後には夫人(日野富子)が男子を出産(足利義尚)したことで、おきまりの後継者争いが勃発する。
義視の後見にはかつて管領を務めた実力者の細川勝元があり、これに対抗するために日野富子は実力者の山名宗全に義尚の後援を依頼する。
一方、管領家である斯波家と畠山家の両家でも、やはり相続争いが生じていた。争いの当事者はそれぞれに山名宗全か細川勝元を頼り、ここに二大勢力が争う基盤が整った。
それぞれの勢力は各地の大名・小名を自陣営に引き込み、地方勢力側も(自分の利益を守るために)これに応じた。
1467年1月、管領畠山政長の解任を契機として対立は発火点に達し、両陣営とも地方から続々と兵力を上洛させた。幕府は争いを調停せず(できず)、両陣営の大兵力は京の東西に布陣する。前哨戦とも言える小競り合いを経て、5月26日に本格的な合戦が始まった。

*1:だけじゃないですが

*2:まあもともと権威が低かったから戦乱になったとも言えますが

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