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島津義久

(社会)
しまづよしひさ

島津義久(しまづよしひさ)
天文2年2月9日(1533年3月4日)〜慶長16年1月21日(1611年3月5日)
薩摩の戦国大名で、島津貴久の嫡男。 母は入来院重聡の娘、雪窓夫人。島津義弘・島津歳久とは同腹の兄弟。異母弟に島津家久がいる。幼名は虎寿丸。通称又三郎。元服して忠良、足利義輝からの偏諱を受け、義辰。後に義久と改名する。祖父忠良の娘(叔母)を妻に迎え一女をもうけ、死別後は種子島時尭の娘を後妻とし、二女をもうけたが男児には恵まれなかった。
1566年、父の隠居に伴って家督を相続し、島津家第十六代当主となる。その後は弟の島津義弘や島津歳久、島津家久らとともに、九州統一に向けて各地を転戦した。1572年には木崎原の戦いで伊東氏を、1578年には耳川の戦いにおいて大友氏を、1583年には龍造寺氏を、1584年には阿蘇氏をといった具合に、いずれも義久を筆頭とした有能な兄弟による体制が万事を期し、島津氏は一時は大友領を除く九州の大半を支配した。
ところが、1587年に豊臣秀吉率いる九州征伐軍が現われると、戸次川の戦いで十河存保、長宗我部信親を討ち取るものの、ついで現れた豊臣秀長の大軍にはさしもの島津軍も衆寡敵せず、義久は剃髪することで降伏し、島津氏は薩摩と大隈のみを安堵されることとなった。義久はこれを機に剃髪、名を龍伯と改めているが、家督を義弘に譲ったかは明らかになっていない。
豊臣政権下では弟の義弘に島津家の軍事権を掌握された形ではあったが、領内での実権は依然として義久が握っていた(これを「双殿体制」と言う)。ちなみに義久には男児が無かったため、義弘の子・島津忠恒に三女・亀寿を娶わせ養子とすることで後継者と定めた。

本領安堵後、徳川家康に伏見城へ招かれ九州をほぼ統一した時の話を請われた。話す事はないと断ったが、家康や家康の家臣が強く要請するので渋々、「義弘をはじめとする3人の弟たちや、新納忠元らの家臣団が相反することなく一致団結して戦ってくれたので、私が先頭に立ち戦に出たことはなく、ただ鹿児島の城にて留守番をしていただけのことです」と答えた。義久が帰ったあとに家康は家臣らに「大将自ら動くことなく、家臣をうまく使う優れた采配を持っている。これこそ大将の鏡である」と言った、という逸話がある。

1611年、病没。法名は貫明存忠庵主という。

鹿児島市内の福昌寺跡に歴代島津家当主らと共に宝筐印塔がある。他にも霧島市には三重石塔、京都市の今熊野観音寺には逆修塔があり、高野山にも供養塔がある。義久本人の当時の肖像画は残存していないが、鹿児島県薩摩川内市の泰平寺には後世になってから作られた義久降伏の銅像がある。義久は智勇に優れていただけではなく、細川幽斎から古今伝授を受けたり、関白近衛前久との親交が厚かったなど、教養人でもあったと言われている。

(官職位階履歴)

1564年(永禄7) 従五位下修理大夫

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