日本の華族、軍人、政治家。 松下村塾最後の塾生。 明治維新後、新政府軍の要職を歴任。東京鎮台司令長官を最後に軍事からは身を引いていった。最終的な階級は陸軍中将。 岩倉使節団の理事官として欧米を視察後、政府内の要職に就く。内務卿のほか、最後の司法卿にして初代司法大臣となった。 法整備の未熟だった日本の民法・刑法の編纂に大きく貢献。 日本法律学校(現日本大学)、國學院大学の創始者でもある。
wargamejapan.jp ◆ウォーゲーム日本史(国際通信社) 第6号 『箱館戦争/箱館湾海戦』 ウォーゲーム日本史第6号の付録ゲーム『函館戦争』をA氏と再戦した。 このゲームは函館戦争全体をシミュレートしたゲームだ。 マップは北は乙部、鷲ノ木、南は松前、函館が範囲だ。ヘクスではなくポイント・トゥー・ポイントで表している。 1869年(明治2年)4月9日から5月18日までの約1ヶ月を扱っている。 カード・ドリブンのゲームで、カードの山が2回なくなるとゲーム終了だ。 1ユニットは海軍が1隻、陸軍は指揮官1名や1隊だ。 ゲーム手順は次の通りだ。 1)新政府軍が自分の山の一番上のカードをめくる …
wargamejapan.jp ◆ウォーゲーム日本史(国際通信社) 第6号 『箱館戦争/箱館湾海戦』 ウォーゲーム日本史第6号の付録ゲーム『函館戦争』をA氏にインストしていただきながらプレイしてみた。 このゲームは函館戦争全体をシミュレートしたゲームだ。 マップは北は乙部、鷲ノ木、南は松前、函館が範囲だ。ヘクスではなくポイント・トゥー・ポイントで表している。 1869年(明治2年)4月9日から5月18日までの約1ヶ月を扱っている。 カード・ドリブンのゲームで、カードの山が2回なくなるとゲーム終了だ。 1ユニットは海軍が1隻、陸軍は指揮官1名や1隊だ。 ゲーム手順は次の通りだ。 1)新政府軍が自…
昭和47年7月25日発行 昭和53年3月5日26刷 長州人は正義好きである。鳥羽伏見の戦いでは兵力の差から薩長に勝目はなかった。が薩長が勝利すると、勝てば官軍の言葉通り、薩長は官軍になった。西郷と勝海舟が会談し、江戸城総攻撃は中止となった。勝は江戸に集まった軍事的エネルギーを散らすことが急務だと考えていた。新撰組の近藤には甲州百万石はただ取りではないかと囁き、榎本武揚には北海道を吹き込んだ。渋沢成一郎を頭取、天野八郎を副頭取として彰義隊が発足したが、すぐに江戸を守る天野と日光に行く渋沢に分裂した。この頃、蔵六は軍政上の最高職の軍防事務局判事に昇任した。覚王院義観は彰義隊の理論的指導者になった。…
関口フランスパン目白坂本店で、フレンチトーストを食べる。 1888年(明治21年)に小石川関口教会(現関口教会)付属聖母仏語学校製パン部として創業。 関口フランスパン 東京カテドラル聖マリア大聖堂 1899年(明治32年)に聖母仏語学校「玫瑰塾」(まいかいじゅく)の付属聖堂として建てられ、1900年(明治33年)に関口小教区の聖堂となり、1920年(大正9年)に東京大司教座聖堂となった。 1945年(昭和20年)の東京大空襲によって焼失するが、ドイツのケルン教区の支援によって再建設が決定し、1964年(昭和39年)12月8日に完成した。丹下健三による設計で、空から見ると十字架の形をしている。 …
松下村塾は、江戸末期の山口県萩にあった私塾で、 吉田松陰の叔父の玉木文之進が始めました。 その私塾を松陰が引き継ぎ、塾生は五十人ほどで その塾生が倒幕の志士となっていき、 そのほとんどが路頭に倒れ、 明治維新を見る事は出来ませんでした。 わずかに生き残った者たちは、伊藤博文、山縣有朋、 品川弥次郎、山田顕義など明治の顕官となりました。
みなさん、こんにちは。 そして、あけましておめでとうございます。 ・・・と言いたいところですが、なんと記念すべき新年の2024年1月1日に能登地方で地震が発生してしまったのは、あまりにも心外です・・・。地震にの被害に遭われた皆様のご無事をお祈り申し上げます・・・。 さて、気を取り直して本題といきましょう。 そんな元旦に関東を出発し、広島行きの夜行バスで広島へ向かいます。 広島駅で朝食 7:55頃、広島駅に到着。 広島駅に到着後、朝食をいただきました。 新幹線口のカフェのホットドッグとフライドポテトにホットコーヒーが美味しかったです。 新山口駅に到着 ということで、これから山口県の萩市へ観光に行…
先日、世田谷ボロ市に行ってきたのですが、雰囲気を味わっただけで、何も買いたいものが見つかりませんでした。 このまま帰るのももったいなと思い、急遽、近くにある松陰神社に行ってきました。 鳥居をくぐってちょっと行くと吉田松陰の像がありました。 本殿はこんな感じ。 本殿の隣には松下村塾を模した家屋がありました。 境内の中には吉田松陰のお墓もあります。 そういえば、吉田松陰ってどんな人かご存知ですか? 井伊直弼が行った安政の大獄で処刑されたのは、日本史の授業で習いました。 それ以外についても少しだけ。 吉田松陰は長州藩出身の幕末の志士で、尊王攘夷の思想を抱きました。幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結…
大会を終えて、同級生に山口市にある「菜香亭(さいこうてい)」に連れて行って貰った。明治時代に山口の迎賓館と呼ばれた料亭で元々別の場所にあったが、廃業を惜しんだ市民の請願で、現在地に観光や市民交流の場として移築公開されたものであるらしい。 広間より庭をみる 私が書に多少の興味を持っていることから連れ出して貰ったもので、歴代総理大臣などの要人の書の扁額多数が百畳の大広間に掲げられれいる様はまさに圧巻である。 ちなみに由来を読むと「菜香亭」と命名したのは長州出身の明治の元勲・井上馨で、当時の料亭主人の名・斉藤幸兵衛の斉と幸の音を使って名付けたそうである。 扁額は30余り有り全ては載せきれないので、こ…
山口県萩市にある松下村塾。倒幕の原動力となり、また明治日本を作り上げた人物達を輩出した長州藩の私塾です。 (萩の松陰神社の中にある松下村塾) 山口県萩市にある松下村塾は幕末に、長州藩の藩校「明倫館」の師範を務めた吉田松陰が主宰した私塾で長州萩城下の松本村(現在の山口県萩市)にありました。 現在、松下村塾の塾舎は松陰神社の境内にあります。 松下村塾は、木造瓦葺き平屋建ての50㎡ほどの小舎で、8畳の一室と4畳半一室、3畳二室、土間一坪、中二階付きの部分の小さな小屋です。幕末当時の塾舎です。 御覧のように小さな小屋ですが、ここで、のちに偉人となるおよそ80人が学び、そして巣立ちました。 講義室として…
寺島実郎の「世界を知る力」の11月版「ユダヤ・イスラエル問題の深層」(東京MXテレビ11月19日放映)。 寺島実郎『ダビデの星を見つめて 体験的ユダヤネットワーク論』(NHK出版)の第五章「21世紀のイスラエーしたたかな同盟国として、技術先進国として」。ハマスのテロ、イスラエルのガザ侵攻で指摘した不安と懸念が現実になった。 『エコノミスト』(毎日新聞)の「絶望のガザ」にインタビューを掲載。 以下、最後の日本について。 不必要な戦争を拒否する勇気と構想。 9・11とイラク戦争の結末、、、、そして日本の埋没(米国とともに迷走、埋没する日本) 吉田茂「外交は技術ではなく経世家としての経綸」ーーー構想…
皆さんは山口県の萩市に行かれたことありますか? 歴史ある街並みと当時の雰囲気を味わうことができる歴史ゆかりの地として有名なんですよ。 今回は【情緒あふれる歴史的景観を見に行こう!萩市でおすすめのスポット】をご紹介していきます。 歴史好きの方はもちろんのこと、萩市に行かれたことがない方はぜひこの機会に一度観光に訪れてみてはいかがでしょうか。 萩市の魅力について! 明治維新がお好きな方はぜひ!【松下村塾】 アクセス方法 当時の街並みが広がるスポット!【萩城城下町】 アクセス方法 萩市を代表する偉人が祀られている神社!【松陰神社】 アクセス方法 桂小五郎とも呼ばれた偉人が住んでいた屋敷!【木戸孝允旧…
谷口正和回顧展「Consept & Creation」で故人を偲んできました。目黒区青葉台。 「知研」でのセミナーで知り合い、ビジネスマン時代に会社の危機に当たり創設された社長直轄のプロジェクトチームで仕事をしたときに、助力いただいた方でした。1992年から1996年あたりだから、もう30年近く前です。 現在のCEOの千葉光範さんに挨拶した時に、「魔力」という言葉がでたが、谷口さんの言葉には確かに人を誘う、しびれる魔力があった。この回顧展は、残念ながら会えなかったが、当時一緒に仕事をした石原さんのプロデュースだそうで、内容に納得した。 谷口さんは多くの著作を矢継ぎ早に出して、その都度贈ってもら…
浮川和宣『私の履歴書 文字を超える』(日本経済新聞出版社)を読了。浮川さんは、29歳でジャストシステムを創業し、日本語ソフト「一太郎」を大ヒットさせた人である。60歳でMetaMojiを起業し、今までと同様に初子専務と軌道に乗せて活躍中である。 旧知の浮川初子専務から贈ってもらった本が昨日届いたので、さっそく読んだ。本日、知研読書会があったので、メモをつくって紹介した。 文字を超える 私の履歴書 (日本経済新聞出版) 作者:浮川和宣 日経BP Amazon 2022年3月に日経新聞「私の履歴書」の連載。2022年9月に映像版・2023年10月に単行本。新聞連載時に、初子専務は毎日ブログで記事の…
【今日は何の日?】 1881年(明治14年) 10月11日 ・明治十四年の政変が発生。 明治政府のリーダー大久保利通の暗殺後、大久保の下で力をつけた伊藤博文が政府の主導権を握り 大蔵省を権力基盤に政府の財政を握る大隈重信も伊藤に従いました。 1881年3月、自由民権運動の激化に伴い各参議が立憲政体設立の意見書を提出する中、遅れて大隈も提出。 しかし、その内容が2年後の国会開設と英国流の政党内閣を目指すといった急進的なものであったことから、伊藤が激怒して両者の間が険悪となります。 7月21日、北海道開拓使廃止に伴う民間への払下げが閣議決定されるも 26日、開拓使長官の黒田清隆が同郷の五代友厚へ破…
北里柴三郎記念館。 9月末締め切りの10人の共著の原稿を書き終えた。統一テーマは「旅」。私のテーマは「人物記念館の旅」にした。2005年に始め、2022年に1000館に達した旅のことを書いた。出版は2024年3月を予定。 以下、小見出し。 はじめに。なぜ人物記念館か。数字で振り返る。節目の記念館。ココロの革命。7つの共通項「仰ぎ見る師匠の存在」「敵との切磋、友との琢磨」「持続する志」「怒涛の仕事量」「修養・鍛錬・研鑽」「飛翔する構想力」「日本への回帰」。偉い人とは「影響力」の大きな人。なぜ人物記念館の旅が続いたか。現地に行かなければわからないことがある。「偉人伝」の復活を。「人間学」へ。久恒啓…