元サッカー選手。ポジションはディフェンダー(センターバック・リベロ)、ミッドフィルダー(ボランチ)。
1977年2月7日生まれ。大阪府富田林市出身。身長176cm、体重72kg。血液型A型。
ガンバ大阪ユース時代から年代別のサッカー日本代表に選出され、1995年FIFA U-17世界選手権、1997年FIFAワールドユース選手権、2000年シドニーオリンピックに出場した。U-17から代表でチームメイトだった中田英寿、松田直樹とは同学年の早生まれという共通点がある。
ディフェンダーとして体格には恵まれていなかったが、鋭い読みと的確なカバーリングが持ち味で、強いリーダーシップでディフェンスラインを統率した。クラブのみならずU-17からA代表まで全カテゴリで主将を務め、フィリップ・トルシエとジーコ両体制でも主将に指名された。
2000年にA代表デビュー。2002年FIFAワールドカップでは、直前で負傷した鼻骨骨折を守るためにフェースガードを付けて出場。この際、白いフェースガードを黒いマジックで塗りつぶしていたことから「バットマン」と呼ばれた。2004年のAFCアジアカップ、準々決勝ヨルダン戦ではPK戦に持ち込まれたが、ペナルティーマーク付近のピッチの状態が悪く、中村俊輔と三都主アレサンドロが相次いで外した。宮本がレフェリーに英語でサイドを変えることを提案、これが認められ反対側のゴールに変わったことでPK戦の流れが変わり、川口能活のスーパーセーブもあって勝利に結びつけた。決勝でも中国に完勝して優勝、大会ベストイレブンにも選出された。2006年FIFAワールドカップでは、2敗1分でグループリーグ敗退に終わった。日本代表国際Aマッチ71試合出場、3得点。
2011年シーズン限りで現役引退。今後はFIFAマスター及びヨーロッパにおいて指導者ライセンス取得を目指すという。
ガンバ大阪オフィシャルDVD 宮本恒靖DVDバイオグラフィー
*1:入団と同時に同志社大学に進学。6年かけて卒業した。