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宣銅烈

(スポーツ)
そんどんよる

Sun Dong yol ソン・ドンヨル

韓国プロ野球、ヘテ・タイガースの選手、三星ライオンズの監督。
プロ野球、中日ドラゴンズの選手。
通称「韓国の至宝」。「無等山爆撃機」。


右投右打、ポジションは投手。背番号は18→20番。
1963年1月10日生まれ。韓国光州広域市出身。
光州一高で全国制覇。高麗大学時代に世界青少年野球選手権で韓国を優勝に導く。

1982年、世界アマチュア野球選手権(現・IBAFワールドカップ)で優勝し、最優秀選手に選ばれる。
1984年、ロサンゼルスオリンピックにも出場。
1985年、ドラフト1位で韓国プロ野球、ヘテ・タイガースに入団。
1年目はシーズン後半から出場し、7勝4敗8セーブという成績ながら、防御率1.70で最優秀防御率のタイトルを獲得。
その後、7年連続で最優秀防御率のタイトルを獲得。最多勝4度。

ヘテ・タイガースのエースとして活躍。
金城漢韓大化らと共にタイガースの最多優勝に貢献。1980年代の黄金時代を築く。


韓国球界最高の投手として、絶大な人気を誇った。

150km/hを超える速球と、一見して速球と区別が付かない2種類の高速スライダーを武器にした。
また、抜群の制球力で圧倒的な成績を収めた。

1991年、1995年の日韓野球に連続出場。


1996年、日本球界への挑戦を決意。中日ドラゴンズへ入団。

ドラゴンズのエースナンバーを背負い、韓国球界の期待を背負うも、日本球界に馴染めず、1年目は好成績を残せなかった。

しかし、トレーニングに日本式を取り入れ、1997年以降、クローザーとして大車輪の活躍。*1
佐々木主浩、高津臣吾と共に球界を代表する抑え投手として活躍。


1998年には自主トレーニングを合同で行うなど、チームメイトとも打ち解け、日本語を流暢に話せるようになっていた。

1999年、絶対的なクローザーとしてセ・リーグ優勝に貢献。
また、李鍾範サムソン・リーのよき兄貴分として、面倒見のよさも有名であった。

野球を通じて日韓の間を近くした功績は大きく、堅実な人柄は日本のプロ野球ファンにも敬意を表され、愛された。

同年、現役引退。その後、ボストン・レッドソックスからの入団要請があるものの、辞退した。


2001年1月18日、背番号18番がヘテ・タイガース起亜タイガースの永久欠番*2となる。


2003年、中日ドラゴンズ特別コーチに就任、指導者の道を進む。
また、マスターズリーグ・名古屋エイティディザーズの選手としても活躍。


2004年、三星ライオンズのヘッドコーチに就任。同年、韓国球界最高の投手に選ばれる。


2005年、三星ライオンズの監督に就任。
継投策を翻弄し、1年目でチームを韓国シリーズ制覇、アジアシリーズ準優勝に導いた。


監督業を行う一方で、李承菀など、日本球界で活躍する韓国の選手にアドバイスを送っている。

*1:当時監督であった星野仙一に、「お前はユニフォームの後ろに太極旗を付けてるみたいだ。常に大きなプレッシャーを感じて試合に臨んでいる。お前は韓国代表選手ではなく、真のプロ選手になるべき」とアドバイスをもらい、「投手・宣銅烈」を取り戻したという。

*2:起亜タイガースは2001年、ヘテからの身売りの際に宣銅烈の永久欠番18を返上、新人投手に与える。 このことが韓国球界およびマスコミなどで猛反発を招き、同年、元通り永久欠番に指定。

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