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土井正三

(スポーツ)
どいしょうぞう

プロ野球選手・指導者。
右投右打、ポジションは二塁手。背番号は6番。
1942年6月28日生まれ。兵庫県神戸市出身。育英高校から立教大学に進学。
1965年、読売ジャイアンツに入団。1年目より二塁手の定位置を獲得。バントの名手としても活躍。読売ジャイアンツのV9黄金時代に貢献。
1978年、現役引退。ベストナイン2回、ゴールデングラブ賞1回、オールスターゲーム出場4回。1979年より、読売ジャイアンツのコーチを務める。
1988年、退団。
1991年、オリックス・ブルーウェーブの初代監督に就任。3年連続3位と、安定したチームを維持したが、選手との軋轢を招きがちで(後述)1993年に退団に追い込まれる。
1996年、守備走塁コーチとして読売ジャイアンツに復帰。2000年まで務めた。その後、RFラジオ日本の野球解説者を務める。
2001年より、マスターズリーグ・札幌アンビシャス選手兼任コーチに就任。2006年、札幌アンビシャスの監督に就任。
2007年、膵臓がんのため闘病生活を送っている。
2009年9月25日、逝去。

「V9さん」

オリックス監督時代は、確実性のある小粒な選手を中心に起用したためにブルーサンダー打線を弱体化させたことで、ファンからの反発を招いたばかりか、またことあるたびに、自分が元所属した球団(巨人)を引き合いに出して、選手を叱りつけることが多かったために、選手の反発を招いた。「V9さん」とはその時の陰口。

「イチロー」の才能を見抜けなかった

イチローへ「振り子打法」矯正指示を出して、それが受け入れられないとすぐさま二軍に降格させたことは有名。その後、仰木監督の下で急成長を遂げながらも、「振り子打法は認めない」と頑迷な発言を繰り返し、なおかつイチローが大リーグに挑戦するときも「成功するはずがない」と異を唱え続けた。癌発病後の晩年は、イチローとの「和解が強調されていた」ものの(その後、川上哲治も「決して才能を見抜けていなかったわけではない」と擁護する発言を行ったが)、世間的には「イチローの才能を見抜けなかった男」として、球史に名を残すこととなった。。

「パンチ佐藤」との不仲

前述したとおり、選手との関係は決して良くなかったが、特にパンチ佐藤との対立は有名。もちろん、選手としての技術面からいえば土井正三の方がキャリアは上だが、実際のところは、私生活面について(球場への自転車通勤、あるいは結婚相手などに対する)揶揄する発言を繰り返したと言われ、パンチ佐藤自身、「途中何かありましたけども」と、名前を出すことさえ(あるいはイニシャル「D」のみで敬称なしとか)忌み嫌っていることがわかる。

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