江戸時代に福島県会津地方にあった藩
江戸初期、蒲生氏、上杉氏、蒲生、加藤と頻繁に領主が交代した後、1643年に、二代将軍秀忠の子で保科家に養子に出ていた山形藩主保科正之が23万石で入封。保科氏は三代正容のとき松平氏に改姓し、親藩大名となった。以後、保科正之の子孫である会津松平家が治めた(※途中の第7代藩主松平容衆の代で男系は断絶)。
幕府の文治化に伴い、官僚化し堕落する旗本・御家人が多かった江戸の太平の時代に入っても、文武に常に怠らず(後に藩校の日新館の設立につながる)、初代藩主の掲げた『尚武』の藩として名を知られた*1(しかし、それが幕末に京都守護職を押しつけらる遠因となる)。
九代藩主松平容保は八代容敬の女婿となって美濃国高須藩の高須松平家から養子に入った。容保は幕末に京都守護職となり、新撰組を置いて会津藩士共々京都の治安を担った。そして禁門の変では孝明天皇奪取を企てた長州藩勢から御所を守り抜いた。
孝明天皇崩御後、薩摩藩・長州藩を中心とした明治新政府との対立は決定的となり、そして大政奉還後の戊辰戦争においては奥羽越列藩同盟の他藩ともども朝敵とされ、旧幕府勢力の中心と見なされて新政府軍の標的となった。
1868年、会津藩は会津若松城下での戦い(会津戦争)に敗北して壊滅し、会津藩領は会津松平家から没収。翌1869年、容保の嫡男・松平容大は家名存続が許され、辺境の陸奥国斗南(現在の青森県むつ市)に斗南藩を立藩した。
*1:その一方、文政元年には相馬藩と参勤交代時にトラブルも起こしている→ISBN:4167627086
地域調査で紋別市立博物館に行った。紋別市はオホーツク海沿岸の漁業が盛んな地域である。観光資源としては冬季に流氷をドリルで砕きながら進むガリンコ号などで有名である。博物館は漁業が中心であり、順路としては左回りで漁業の仕組みの映像から始まり、漁業に使う道具の展示を見て、漁業の拠点となった番屋に辿り着く。さらに壁面展示を周ると農具や民具が配置されており、中央部には旧石器~近世江戸期までの時代ごとの解説パネル(近代以降は年表)や学習用PCがある。その他、紋別市にかつてあった産業として名寄線の鉄道展示、砂金と金鉱山の開発の歴史と終焉が独立展示としてあった。 【目次】 展示など 紋別市における和人の進出~…