1986年、シングル「恋の肥後つばき」でワーナーからデビュー。それ以前から、
大阪でキャンペーンをしていたこともあり、TOP100入りを果たす。その後、
88年に現在の所属東芝EMIに移籍し、「女のみれん」をリリース。ほぼ同時期に
テレビ大阪にて『美律子の演歌一夜』という名のナツメロを歌う自主制作の番組を作り、
独特なコブシ回しやセリフや浪曲の節回しが人気で口コミ的に熱い支持を得る。
また、89年に出した「河内おとこ節」、90年に出した「大阪情話」が立て続けに
ロングセラーとなり、徐々に全国的な人気となり、91年には『演歌一夜』は全国27局ネットの
人気番組となり、オリコンTOP100に「瞼の母」「河内おとこ節」「しあわせ酒」が
同時ランクインするというフィーバーぶり。
翌92年からは、紅白初出場に向けて倍ペース宣言をし、「酒場ひとり」(日本作詩大賞受賞)と
「男道」を同時発売、史上初の演歌チャート1位、2位を初登場で独占した。これを機に、両シングルが15万枚を越えるヒットで、この年の紅白歌合戦に初出場した。
その後も、93年には「壷阪情話」も20万枚を超えるヒットとなり、これがきっかけで盲導犬へのチャリティ行事および寄付が現在まで続く。累計1億円以上の寄付をしていることになる。
また、その後も五木ひろしとのデュエット「浪花物語」(94年)、NHKテレビ銀河小説にもなった「中村美律子物語」が好評でロングセラーとなった「人生桜」(97年)、昭和ぶんちゃか演歌風の「おんなの純情」(00年)とヒットを飛ばしているが、極めつけは99年にリリースされたアルバム『歌謡浪曲集』であろう。たった4曲で60分を超える超大作ぞろいだ。
特に「歌謡浪曲『瞼の母』」は、一人で忠太郎、母のお浜、妹のお登勢のセリフ、浪曲、歌と何役もこなす19分の熱演で、BS日本のうたで歌うたびに、並々ならぬ反響があるほどだ。
にもかかわらず、紅白歌合戦には、初出場の92年、阪神大震災のあった95年、SPEEDの振袖との共演のあった98年、第一部のトリを務めた02年、そしてマツケンサンバとの対抗馬にあてがわれた04年と5度も同じ歌を歌っているのは、ファンにとっても本人にとっても歯がゆい思いがあるのではないだろうか。
是非とも、味わい深い歌唱が多くの人に知れ渡ることを祈らんばかりである。