作詞/作曲/放送作家、1914〜1994 戦後の放送音楽・商業音楽を切りひらいたマルチタレント
昭和20年代のNHKラジオ番組『日曜娯楽版』で人気を集め、CMソングづくりの草分けとしても活躍した。東大法学部を卒業したエリートだが、6歳のときオルガンを手にして以来親しんだ音楽への情熱やみがたく、徴兵され新兵教育を担当した軍隊時代も、軍務の合間をぬって作曲家の諸井三郎に師事。
終戦後、焼け跡の貧しさと開放感を歌った「南の風が消えちゃった」を作り、NHKラジオ『歌の新聞』に出演。翌朝の新聞で「彗星の如き天才現わる」と絶賛。翌年からラジオの『日曜娯楽版』で「冗談音楽」コーナーを受け持ち、モダンで明るい楽曲の合間を社会風刺の効いたコントでテンポよくつなぐ構成で大人気を獲得。聴取率は80%とも90%とも言われ、番組からは「僕は特急の機関士で」「田舎のバス」「毒消しゃいらんかね」などのヒット曲が続出した。またジャズ・バンドの三木鶏郎楽団(ジョージ川口、小野満、鈴木章治、他)も結成、活動の場を舞台、映画にも広げた。
1951年、民間放送開局にあわせ、日本初のコマーシャルソング「僕はアマチュアカメラマン」を発表。「ワ・ワ・ワ・輪が三つ」「明るいナショナル」「キリンレモン」など商品・社名連呼型“コマソン(=コマーシャルソング)”の全盛期を築く。また53年にはディズニー映画『ダンボ』『わんわん物語』の日本語版音楽監督をつとめ、テレビの始まった60年代には『鉄人28号』『トムとジェリー』『ジャングル大帝』のテーマソングも担当。放送・商業音楽の黎明期に、まさに八面六臂の大活躍。
また42歳の時、糖尿病が判明するが、同病者に呼びかけて「糖尿友の会」をつくり、『私の愛する糖尿病』という本を執筆、全国の糖尿病患者に希望を与た。