ラカンを読んでいたら『マカロニほうれん荘』が読みたくなった。なぜなら、このマンガの物語はラカンのいう「父の名」が欠如したパロールの暴走を扱っているからだ。 というのは嘘だが、このマンガには「父」の存在が欠如しているのは確かである。 そうじには父親がいない(母親はいることになっているが一度も登場しない)し、姫野かおりにも父親がいない。文子先生にもいない。このマンガに「父親」として明確に登場するのは「クマ先生」だけだが、読めば分かる通り、彼は「父の権威」を完璧に剥奪された存在である。 トシちゃんときんどーさんは「父の名」を拒絶したまま生きている、というよりそこから目を背けて想像的な遊戯に没頭してい…