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ハプスブルク

(社会)
はぷすぶるく

Habsburg
→ハプスブルク家
13世紀から今世紀初頭までの約700年間、汎ヨーロッパ的な性格と重要性を持っていた王朝。その影響範囲は中欧のオーストリアばかりではなく、ポルトガルからポーランドまで、ドイツからイタリアそしてバルカン南部までと、ヨーロッパ全域におよんだ。
戦争ではなく、結婚政策で版図を拡大していったことも特徴的。

起源

ハプスブルク家の起源として確実に歴史に名を残している祖先は11世紀ころからで、その要覧の地と活動の拠点であったハプスブルク城はスイスのバーゼル・チューリヒの中間地点あたりの、河川交通の要所・ドイツとイタリアを結ぶ街道筋にある。1237年、ハプスブルク家の始祖とされるルードルフ一世が一族で初めて神聖ローマ帝国の国王に選ばれる。14世紀、二代目アルプレヒト暗殺と、その後のスイス独立にともなう敗戦・失地などから、始祖の地ハプスブルクからウィーンに本拠地を移す。

最後の神聖ローマ皇帝

1440年、フリードリヒ三世がローマ王に選ばれ、以来1806年のフランツ二世まで、わずかの例外はあったがハプスブルク家によって神聖ローマ帝国の王冠が伝えられた。
1804年、ナポレオンがフランス皇帝を名乗り、その2年後の1806年、フランツ二世は自発的に神聖ローマ帝国の帝位を下りてオーストリア皇帝を名乗るようになった。

滅亡

第一次世界大戦さなかの1916年、「最後の皇帝」フランツ・ヨーゼフが86歳の高齢で逝去しオーストリア=ハンガリー二重帝国は事実上の終焉となった。フランツ・ヨーゼフの次にカール1世が帝位にのぼったがわずか2年後の1918年、ハプスブルク帝国は名実共に瓦解、旧領のハンガリー・ボヘミア・ポーランド・ルーマニア・ユーゴスラビアの所領を失ったオーストリアは共和国となった。

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