Dynasty Cup 東アジアにおけるサッカーの国際大会。 東アジアのサッカーのレベル向上を目指し、1990年より2〜3年に1回開催された。
その後東アジアサッカー連盟(EAFF)の設立により、発展的解消。 2003年度から2年に1回開催される東アジアサッカー選手権に継承された。
サンガスタジアムのは行ったなあ どーもこんばんは さてさて、今年はスタジアムイヤーとでも言えよう年でしょうか。 長年に渡ってサッカースタジアムの建設を目指してきたサンフレッチェ広島が、遂に最新鋭のサッカースタジアム『エディオンピースウィング広島』を完成させ、いよいよ2月10日のこけら落としマッチよりホームスタジアムとしての稼働を開始します。その対戦相手はガンバ大阪。エディオンスタジアム広島のラストゲームもガンバだっただけに、ガンバに終わり、ガンバに始まる的な光栄さをガンバファンとしては勝手に感じたりするのですが、いずれにしても、この国に極上のサッカースタジアムが生まれた事は非常に喜ばしく。 ま…
「カリオカの戦い」 20歳で来日したラモス瑠偉( Rui Gonçalves Ramos sobrinho )は、ブラジルスタイルで一時代を築いた読売クラブの象徴的存在となり、長いキャリアを過ごした日本サッカー界で大きな足跡を残した。 JSL(日本サッカーリーグ)では5度の優勝を果たし、得点王2回、アシスト王3回を獲得。天皇杯も3度制覇するなど、多くのタイトルをチームにもたらした。その後プロ化したJリーグでも、ヴェルディ川崎の中心選手として活躍する。 89年に帰化し、90年には33歳で日本代表入り。オフトジャパンの司令塔となり、ダイナスティカップ(現E-1東アジア選手権)優勝とアジアカップ初制…
そんな広島も新スタへ どーもこんばんは さてさて、アジアカップ2023が始まります! 通算5度目となる優勝を目指す日本代表ですが、いわば日本代表とアジアカップの歩みはその成長の軌跡を映すようなものでもありました。 という訳でこのアジアカップを機に、日本代表が過去に戦ってきたアジアカップを振り返っていきたいと思います。 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 初回となる今回は1992年日本大会です。 日本にとって開催国代表でもあった1992年大会ですが、日本サッカーに於ける「1992年」とは今に繋がる時代の始まりの一年だった…そういう…
加茂周新監督とゾーンプレス ファルカンが僅か8ヶ月で日本代表監督を解任されると、強化委員長の川淵三郎は加茂周を後任の代表監督に選んだ。加茂監督は、日産自動車を県リーグから日本リーグ1部に引き上げ強豪チームに育て上げるなどの実績を持ち、以前から代表監督の候補に上がっていた人物である。 日本サッカー協会はブラジル人監督ファルカンとの意思疎通を欠いたことから、早々と外国人監督へのこだわりを捨て方針転換を図ったのだ。 Jリーグ発足後、加茂は横浜フリューゲルスの監督に就任すると、チーム戦術に “ゾーンプレス” を取り入れ天皇杯優勝を果たしていた。加茂はその戦術を日本代表にも採用しようと考える。“ゾーンプ…
プロ化を果たした日本サッカー 1985年、メキシコワールドカップ予選で韓国に完敗したことをきっかけに、日本サッカー界はプロ化に向かって動き出す。86年には日産の木村和司と西ドイツから戻ってきた奥寺康彦が、 “スペシャル・ライセンス・プレイヤー” という名称で日本最初のプロ選手となり、その翌年には日本リーグの多くの選手がプロ契約を結ぶようになった。 88年に実質的なプロ化検討委員会が発足すると、推進派によりサッカー協会に具体的案が提示される。サッカー協会副会長・長沼健も賛同し、一気に日本リーグのプロ化の話は進んでいった。だが保守派の中には、リーグのプロ化を果たしても成功は難しいと反対する者もいた…
その日、日本列島は燃え上がるような歓喜を味わい、期待を胸に抱いて刻まれる時の針を数え、そしてそれが一瞬にして静寂に変わる瞬間を目の当たりにしました。 1993年10月28日、カタールのドーハ、アル・アリ競技場。華々しく開幕したJリーグの熱が後押しした激動の半年間はいつしか狂気の渦と化し、この国のサッカー人が誰も経験した事のない時流の中で躍動したオフトジャパンが迎えた最期はあまりにも悲劇的で、そして今振り返れば何よりもドラマティックだったのでしょう。 「あの時W杯出場を逃して良かった」と思う人は一人もいないはず。ですが一方で、あの悲劇がもたらした教訓は後の日本サッカーの成長に大きな意味をもたらし…