昭和47年(1972年)2月19日に、長野県軽井沢の保養所『あさま山荘』で発生した、連合赤軍のメンバーによる立てこもり事件。
がけ地に立つあさま山荘は、守るに易く、攻めるに困難な構造。加えて、零下15度にもなる猛烈な寒さが、包囲を長引かせることになった。また、人質の人命が最優先された結果、作戦の進行は慎重に慎重を期すことになった。
2月28日に解決するまで、10日間、約219時間にわたり、管理人の妻を人質に立てこもった。死者3名(うち民間人1名)、27人が重軽傷を負った。
犯人側からは散発的な銃撃。警察側からはメガホンによる投降の呼びかけ、家族による説得、催涙ガス弾や放水などが作戦として行われ、10日目には鉄球による山荘の破壊が行われた。その模様はTVで生中継され、テレビ放送史上最高の視聴率(NHKで89.7%)を記録した。
全共闘による大学闘争敗北後、一般の学生たちは政治運動から離れていったが、一部のセクトは過激化し、武装闘争による革命を志向した。
その中心となった赤軍派は、70年3月よど号ハイジャック事件を引き起こし、71年3月にはパレスチナ闘争との連帯を求めるが、塩見孝也ら相次ぐ幹部やメンバーの逮捕で弱体化。そこで、山岳アジトや武器を確保していた、京浜安保共闘とともに武力革命を目指すことに合意。ふたつの組織の連合体として、71年12月20日ごろ、総勢29名からなる連合赤軍が結成された。
結成された連合赤軍は、群馬県榛名山中や妙義山などで訓練を続け、この間に『総括』と呼ばれるリンチが行われ、12人が惨殺された。総括を恐れたメンバー3人が逃走したことで、残りのメンバーが妙義山を経て、長野県側へ逃走。警察の検問などで、幹部の森恒夫や永田洋子らは逮捕されるが、散り散りになったメンバーの一部が、軽井沢の別荘地に逃げ込み、事件を引き起こした。