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黒田孝高

(社会)
くろだよしたか

黒田官兵衛。旧名は小寺官兵衛。号は如水。洗礼名はシメオン
父は黒田職隆。

略歴

父・職隆は、播磨の豪族の小寺氏の家老を務めていた。職隆から早くに家督を譲られ、家老となる。小寺家を織田家に橋渡ししたことで歴史の表舞台に登場。
その後、織田家の中国表の担当となった羽柴秀吉の寄騎のような軍師のような存在になる。

天正六年、荒木村重の謀反の際に村重を説得しようとのこのこ有岡城まで出かけて、うっかり幽閉されてしまう。
翌年救出されるが、牢内での生活がたたって歩行障害を抱える事に。隠居も考えるが、秀吉は孝高の智謀を必要としていたため、これ以後は秀吉より与えられた輿に乗って従軍したと伝えられる。

秀吉のその後の天下取りにあたっても重要な役割を果たしたが、智謀が立ちすぎるために主人の秀吉からも警戒されるようになる。九州征伐後に豊前に12万5000石を与えられたのもあまり大領を与えるとうっかり天下を狙ってくるんじゃないかと恐れられたからだとされる。

1600年、家康と三成の武力対決が始まると、それまで始末に徹して蓄えた金穀を惜しげもなく投じて浪人を集めて挙兵。関ヶ原の合戦に兵力の大半が出動して真空状態となっていた九州で大暴れ。九州北部を支配下に置き、さらに東軍方の加藤清正らと合流して薩摩の島津家を討つ勢いだった。孝高の読みでは中央で大兵力がでにらみ合っている間に九州一円を切り取り、場合によってはそのまま天下を狙えるとふんでいたが、関ヶ原の合戦が1日で終わってしまったのでその野望は挫折した。

晩年は静かに隠居して近所の子供と遊んで暮らしたと言う。

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