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高峰譲吉

(サイエンス)
たかみねじょうきち

日本を代表する科学者であり実業家のサムライ化学者。嘉永7年11月3日(1854年12月22日)-1922年(大正11年)7月22日。富山県高岡市生まれ。現在の東京大学工学部の前身の一つである工部大学校卒。理化学研究所の設立者の一人。1912年(明治45年)帝国学士院賞受賞。

高峰譲吉は加賀藩典医の父と富山県高岡の造り酒屋の母の長男として生まれた。5男7女の12人兄弟の長男。裕福な暮らしでいわるるお坊ちゃま。工部大学校(後の東京大学工学部)応用化学科を首席で卒業後、英国グラスゴー大学への3年間の留学を経て、農商務省に入省。1884年にアメリカニューオリンズで開かれた万国工業博覧会に事務官として派遣され、そこで出会ったキャロライン・ヒッチと婚約。「公費で渡米しているから、今は結婚できない。だから、2年間待って欲しい」というのがプロポーズの言葉。結婚し来日したキャロラインは明治時代の日本での質素な生活に耐えられず、ノイローゼになり家族4人で渡米しアメリカへ永住することになる。その後、肝臓を患った譲吉を幾度となく救ったキャロラインだが、譲吉の没後は息子の友人(23歳年下)の男性と再婚するなど、活動的な女性だったようだ。

高峰譲吉は米国で「高峰式元麹改良法」(ウイスキーの醸造に日本の麹を使用しようというもので、従来の麦芽から作ったモルトよりも強力なでんぷんの分解力を持っていた)を広め事業家としての道を歩む。

その後、自らが肝臓を患った時に麹が消化剤と使えることに気付き、ジアスターゼを開発し特許を申請。日本では三共(第一三共)に独占販売権を与え、自らが初代社長に就く。

そして、上中啓三と止血剤として使用されているアドレナリンの結晶化に成功。しかし、エピネフリン抽出をした米国研究者が高峰譲吉は研究上の盗作を行ったと、事実誤認の非難をした事から日本と米国ではアドレナリンの事をエピネフリンと読んでいたそうだ。しかし、2006年(平成18年)4月、107年目の名誉回復として、日本国内では晴れて「アドレナリン」と呼ばれる事となった。

高峰譲吉の生涯を綴った映画「さくら、さくら〜サムラ イ化学者高峰譲吉の生涯〜」(同製作委員会、北國新聞社製作、市川監督、加藤雅也主演)が2010年3月に公開されることが決まっている

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