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長谷川良平

(スポーツ)
はせがわりょうへい

プロ野球選手・指導者・解説者。
通称「小さな大投手」。
右投右打、ポジションは投手。背番号は32→18番。

1930年3月25日生まれ。愛知県出身。
半田商工から新田建設を経て、1950年、広島カープ創立と共に入団。

1年目にいきなり15勝を挙げると、8年連続で2桁勝利。

解散の危機を背負い、カープが上位争い出来なかった時代に「小さな大投手」として活躍。

長谷部稔とのバッテリーで、シュートを武器に、1950年代を代表するカープのエースとして君臨した。

1951年、名古屋ドラゴンズ移籍を巡り、史上初のコミッショナー裁定に持ち込まれる。*1
1952年、シーズン直前に再度移籍を希望。最終的には残留で落ち着いた。*2

1955年、30勝を挙げ最多勝に輝く。

1956年、「代打、わし」と審判に告げた藤村富美男にサヨナラ満塁本塁打を打たれる。

1963年、通算197勝を挙げ、現役引退。同年より投手コーチに就任。

1965年7月から、白石勝巳の後を受けて広島カープの監督の就任。
1967年まで務めた。


1968年、中日ドラゴンズの投手コーチに就任。

1972年、RCC中国放送の野球解説者となる。

1973年から2シーズン、広島東洋カープ投手コーチとして現場復帰。



退団後はRCCの野球解説者に復帰。広島市内に在住。
また、広島東洋カープOB会長を務める。


2001年、野球殿堂入り。


2006年7月29日、肺炎のため広島市内の病院で逝去。

*1:長谷川への統一契約書が規定の12月15日までに届かなかったことから球界を巻き込んだ騒動へと発展する。契約書の印刷が遅れてしまったためであったが、そのことを知ったドラゴンズは獲得へ動き出した。

*2:ドラゴンズは長谷川獲得を目指したが、カープ側の熱意が押し切り、カープと契約することで決着。この騒動は3ヶ月に及び、マスコミは長谷川を叩いた。しかし、開幕前日に名古屋から広島駅に戻った長谷川は、多くの広島ファンに歓迎を受けた。以後、カープを離れまいと決意した。

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