元サッカー選手、サッカー指導者。
1955年1月1日生まれ。山梨県出身。
2002年にジュビロ磐田がJリーグ史上初の1st、2nd両ステージ優勝を達成したときの監督。
選手やスタッフからは「マサくん」と呼ばれている。
サッカーを始めたのは御坂中3年の時。山梨県立石和高等学校、日本体育大学でそれぞれ主将を務め、当時東海リーグに所属していたヤマハ発動機サッカー部の監督、杉山隆一にスカウトされて入部。ポジションはディフェンダーで1983年1月1日の第62回天皇杯全日本サッカー選手権大会優勝に貢献した。
現役引退後はヤマハ発動機コーチ、総監督、チームがJリーグ加盟に伴いジュビロ磐田と名前を変えてからはヤマハフットボールクラブの社員としてコーチ、サテライト監督、スカウトなどを歴任。2000年2ndステージ途中で解任されたギョキッツァ・ハジェヴスキー監督の後を受け監督に就任した。
最初から指揮を執った2001年には、出場が決まっていたFIFAクラブ世界選手権を見据え、世界と戦うためのシステムとしてN-BOX*1をコーチ陣と共に考案、その強さはJリーグを席巻した。しかし1stステージは圧倒的な成績で優勝したものの、鹿島アントラーズとのチャンピオンシップには敗れタイトル獲得は成らず。その悔しさをバネに臨んだ翌2002年に1st、2ndの両ステージ制覇というJリーグ史上初の快挙を達成した。ヤマハ一筋の社員監督が成し遂げた偉業を称え周囲からは監督を続けるよう慰留されるも本人は裏方志向が強く、後任を柳下正明コーチ(当時)に託し、天皇杯を最後に勇退した。
2003年よりジュビロ磐田強化部長に就任。
2004年9月、桑原隆監督辞任に伴い、山本昌邦が監督就任するまでの橋渡し役として、強化部長兼任で監督に復帰した。
2009年シーズンをもってジュビロ磐田強化部長の職を退任。
2010年8月、AC長野パルセイロ強化本部長に就任。
2011年4月、母校の日本体育大学の監督に就任。長野パルセイロの強化本部長は退任した。
2013年、FIFA U-20ワールドカップ2015を目指すU-18日本代表監督に就任。4大会ぶりのU-20W杯本大会出場を期待されている。
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*1:MF4人を箱型に並べた中心に名波浩を置く中盤のシステム。「週刊サッカーマガジン」が命名した。