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鄭成功

(一般)
ていせいこう

生没:1624年 - 1662年
中国明〜清代の軍人。元の名(諱)は森。字は明儼。日本での幼名は福松。
日本の平戸を拠点に活躍する海商の頭目・鄭芝竜と日本人女性の田川松の間に生まれる。
生来頭脳明晰で、父の強い希望により、科挙合格と文官官僚への道を目指すが、明滅亡により「反清復明」を掲げて、生涯を清との戦いに捧げた。

名前の由来

亡命政権の一つである唐王朱聿鍵(隆武帝)に謁見した時、その容貌・挙措がいたく気に入られ、国姓である朱姓を賜るが、畏れ多いと朱姓は使わずに鄭成功を名乗ることになった。
これ以降、鄭成功は国姓爺(爺は老人の意味ではなく、旦那とか大人などという意味)と呼ばれるようになった。
ちなみに近松門左衛門の人形浄瑠璃作品の一つである「国性爺合戦」は、鄭成功をモデルとして作られたものである。

略歴

  • 幼少時まで平戸で育つ。
  • 1631年(7歳)・・・平戸から鄭一族の根拠地である中国・福建へ連れて行かれる。
  • 県試・府試・院試をトップクラスの成績で通過し、南京の国立大学に学び、更なる上位の科挙受験を目指すも、明滅亡により断念。
  • 1644年(20歳)頃・・・父とともに唐王朱聿鍵(隆武帝)に謁見。官位と朱姓を賜る。
  • 1646年(22歳)・・・隆武帝の北伐失敗と帝の死をきっかけに、父・鄭芝竜は清への投降を決意。父子で袂を分かつ。
  • その後、広西にいた万暦帝の孫である朱由榔(永暦帝)を奉じて抵抗運動を続けることを決意。そのためにまずアモイ島を奇襲し、従兄弟達を殺す事で鄭一族の武力を完全に掌握。
  • 1658年(34歳)〜 大船団を率いて北伐軍を起こす。途中暴風雨によって3分の1の艦船を失う不幸があって一旦軍団を再編成。その後、戦いに相次いで勝利を収め、南京まで達して包囲する。しかし勝利に奢った鄭の軍勢は、隠し門から打って出た守備軍の奇襲と清の援軍により惨敗する。
  • 1661年(37歳)〜 敗勢を立て直す為に、当時台湾を占拠していたオランダ軍を追い払って、清への抵抗拠点とするも間もなく病死。享年38歳。

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